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HP 物理攻撃力 魔力 特殊能力 100 100 100 バストゥークを始め、世界各地に住む、最も人口の多い種族。 基本能力において他種族のような特徴はないが、バランスはとれている。 ステータスは平均的なのでどんなジョブでもやっていける。 特に武器と魔法を両方使うようなジョブに適正がある。 タルタルほどHPが低くないので、ヒュームを魔道士にするのもオススメ。 関連サポート 650s バストゥークワークス 独立:ヒュームとガルカ混成 653s 五戦士魔方陣? PTで全種族網羅 657s ヒュムはバランス 独立:ヒュームのみ
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アルフヘイムで最も多い種族。特徴はほぼ地球の人間と同じ。 寿命は(医療技術が発達していないため)50年ほど。 基本的に医療魔術では外科的負傷を癒すことしかできないため、内臓疾患等の疾病に冒されると手の施しようがないためである。 死亡率は21世紀の地球に比べて極めて高いが、その分繁殖力も旺盛なため一定の人口を維持している。 基本的に白人種が多いものの、日出ずる国ヒノデにはアジア系の人種がおりリバティウムなどには黒人も多い。 他にも砂漠地帯には中東系人種などもおり、一口にヒュームと言っても地球と同じくそのバリエーションは多岐に渡る。 ステータスは良くも悪くも平均的で、存在するいかなる職業・クラスにも適性がある。 ただしそのステータスの汎用性の高さが弱点ともなっており、典型的な器用貧乏。 前衛職ではホビットや魔族に敵わず、魔法職ではエルフの後塵を拝している。 しかし、ヒュームの最大の強みはステータスではなく、その適応力の高さである。 いかなる状況下にあっても瞬く間に順応し、適応する柔軟性、学習能力の高さこそがヒュームの持ち味である。 『異邦の魔物使い(ブレイブ)』たるもの、いかなる時も臨機応変な対応を心掛けたい。 また、繁殖能力で言えば妊娠期間おおむね10ヶ月、一度の出産人数1~2人で、子が成熟するまでに14~16年かかるという点は哺乳類では中位程度であるが、 ヒュームには異種間交配が可能という大きなアドバンテージが存在する。 何せヒュームはアルフヘイム、ニヴルヘイムのほとんどの種族と交配し子を儲けることが出来るのである。 異種間交配によって出来た子はハーフリングと呼ばれ、ハーフエルフ、ハーフドワーフ、ハーフホビットなどのヒューム以外の人型生命体は勿論、 ドラゴンや魔神などとも子孫を作り出すことが可能。(十二階梯の継承者のひとり『禁書の』アシュトラーセはドラゴンハーフである。) なお、他の種族は基本的に同族間同士でしか子を成せない。 このいかもの食い……もとい雑食性こそがヒュームがアルフヘイムの覇権を握った最大の理由であろう。
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○ デイビット ヒューム ヒュームはバークレイの観念を印象と虚偽の観念との二つにわけ、分類する。 前者はもっとも原初的で単に知覚だけではなく、心に明瞭判然と動いているもの(感情 欲求)全てを示す。 これが記憶やそうぞうによって再現された場合に狭義の観念というものが出来る。 当然、前者がより真実で真理の基準となる。 ○ 連想律 印象は一定の法則に立って、機械的に結合される。 類似 :似ている観念は結合 時空的接近:空間的時間的に近い観念は結合 因果:観念は因果関係によって結合 これらの法則により、印象は複雑な観念になる。これを連想律という。 ○知識の確実性 では、このような観念の確実性と客観性はどこに認められるでしょうか。 これは論証によるものと、事実に関するものに分けられる。 前者は数学であり、これは唯一の論証科学であり、論証の到達しうる限り確実性を持っている。 後者は、印象として与えられた事実そのものと印象的事実を土台にした推論とに分けられる。 事実の推論は、数学のような論証ではなく、むしろ因果関係の追及である。 ○ 実体 我々は印象をもつのみである。 ところが連想律によって、おのづと、他の印象や観念を想起することになり、印象の背後にこれを連結し、支持する。 何ものかがあるように想像させられる。つまり、実体とは単なる空想に過ぎない。 また自我も人格も元は知覚の束なのだから、否定される。
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ヒューム いわゆる人間。最も高い機械技術と繁殖力で繁栄している種族。 -- 名無しさん (2008-03-13 13 04 25) 名前 コメント
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日本ヒューム 本店:東京都港区新橋五丁目33番11号 【商号履歴】 日本ヒューム株式会社(2000年10月~) 日本ヒューム管株式会社(1928年12月~2000年10月) 日本ヒュームコンクリート株式会社(1925年10月20日~1928年12月) 【株式上場履歴】 <東証1部>1949年5月16日~ 【沿革】 大正14年10月 日本ヒュームコンクリート株式会社創立。横浜市鶴見区において、本社及び工場を設置し、ヒューム管製造開始。 昭和3年12月 商号を日本ヒューム管株式会社に変更。 昭和9年6月 尼崎工場設置。(昭和34年8月現在地に移転) 昭和24年5月 当社株式を東京証券取引所へ上場。 昭和30年12月 東京都港区へ本社移転。 昭和31年9月 東邦ヒューム管株式会社(現・連結子会社)の株式取得。 昭和32年4月 苫小牧工場設置。 昭和33年11月 若松工場(現・九州工場)設置。 昭和35年10月 熊谷工場設置。 昭和37年6月 三重工場設置。 昭和60年9月 ニッポンヒュームインターナショナルリミテッドを設立。 昭和61年1月 株式会社ヒュームズ(現・連結子会社)の株式取得。 昭和61年2月 不動産賃貸事業へ進出。上丸子NHビル賃貸開始。 平成4年11月 株式会社エヌエィチ・フタバを設立。日本ヒューム建材株式会社(平成8年1月17日に日本ヒュームエンジニアリング株式会社に商号変更。)を設立。 平成5年7月 株式会社安斉鉄工所(平成13年12月1日に技工株式会社に商号変更。 現・連結子会社)の株式取得。 平成12年10月 商号を日本ヒューム株式会社に変更。 平成15年4月 株式会社環境改善計画(現・連結子会社)の株式取得。
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【名前】エレノア・ヒューム 【出典】テイルズオブベルセリア 【種族】対魔士 【性別】女性 【声優】小清水亜美 【年齢】18歳 【外見】髪型は赤毛のツインテールで、目はライムグリーン。 【性格】真面目かつ素直な性格で他人を思いやる心を持つが,融通の利かない堅物な一面もある 【口調】一人称→私 【備考】 以下、バトルロワイアル - Invented Hell - におけるネタバレを含む + 開示する エレノア・ヒュームの本ロワにおける動向 初登場話 032 Distorted†Happines スタンス 対主催 キャラとの関係(最新話時点) キャラ名 関係 呼び方 解説 初遭遇話 ベルベット・クラウ 仲間 元世界での仲間 ※本ロワでは再会せず ライフィセット 仲間 元世界での仲間 ※本ロワでは再会せず ロクロウ・ランゲツ 仲間 元世界での仲間 ※本ロワでは再会せず マギルゥ 仲間 元世界での仲間 ※本ロワでは再会せず オスカー・ドラゴニア 敵対 元世界での元同僚 ※本ロワでは再会せず シグレ・ランゲツ 敵対 元世界での元上司 ※本ロワでは再会せず メアリ・ハント 敵対 殺害される 032 Distorted†Happiness
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概説 知覚――印象と観念 因果関係論 実体 自我の否定 ヒュームの観念論と自然科学の関係 派生問題――知覚の同一性と意識の連続性 概説 デイヴィッド・ヒューム(David Hume, 1711-1776)は、スコットランド・エディンバラ出身の、英国経験論を代表する哲学者。スコットランド啓蒙の代表的存在とされる。ジョージ・バークリーの観念論と現象主義を継承して発展させ、自我さえも「感覚の束」であるとしてその実在性を否定した。この自我論は後に無主体論とも呼ばれ、現代の心の哲学では主流の立場になる。 ヒュームは懐疑主義を徹底し、それまでの哲学が自明としていた知の成立過程の源泉を問い、それまで無条件に信頼されていた因果律を、論理的なものでなく連想の産物であると見なし、数学を唯一確実な学問とした。また科学哲学においては自然の斉一性仮説を提唱した。 知覚――印象と観念 ヒュームは人間の「知覚(perception)」を、「印象(impression)」と「観念(idea)」に分ける。印象とは直接的に与えられた知覚であり、そうした印象が組み合わされたり、また後に記憶や想像によって再現されたものが観念である。つまりヒュームは「知覚」という語を「意識」とほぼ同じ意味で用いている。 ヒュームは知覚の重要な原則として、われわれの別個な知覚はすべて別個の存在であること、そしてその別個の存在の真の結合をわれわれは何も知覚しないこと、という二つを挙げ、その二つの原則は両立しない矛盾したものと考えていた。 ヒュームは「想像」を、観念どうしを結びつける連想能力として、「類似」「接近」「因果」の三つの原理に分ける。また、観念を比較する原理として、「類似」「量」「質」「反対」「同一性」「時空」「因果」の七つを想定した。それらのうち「類似」「量」「質」「反対」は、比較される観念にのみ依存する数学的性質をもち、確実性があるとした。それに対して「同一性」「時空」「因果」は、経験に依存し、蓋然性をもつとした。 ヒュームはどんなに高度で複雑な観念(複合観念)でも、それは構成要素としての個々の観念に分解されるのだと考えた。そしてそれらの観念は必ずそれに対応する印象を背後にもっている。したがって、どんなに抽象的な観念も、それ自体においては個体的な要素を中に含んでいる。たとえば我々が人間という観念を持つ場合、我々は個別の人間を離れた普遍――抽象観念としての人間を表象するわけではなく、自分がこれまでに見てきた多くの具体的な人間を束にして表象しているに過ぎない。 印象というものの存在性格について、二元論者であるジョン・ロックは、それを直接には知ることはできないが、客観的に存在すると考えられる外部の物質が、人間の心に働きかける結果生じるのだとした(知覚因果説)。ジョージ・バークリーは純粋に観念論者であり、印象や観念とは人間の心の中にのみ生じるものであって、それに対応する外部の客観的実在を想定するのはナンセンスだといった。ヒュームは懐疑主義者であり、印象とは我々が心の中に感じる経験ではあるが、我々はその経験をそのままに受けとめ、問題にすればよいのであり、経験する主体とその客体を対立させて、それぞれの存在性格を云々するのはナンセンスだとする。 因果関係論 ヒュームは帰納法は演繹法と違って論理的なものとみなさなかった。そして因果関係とは帰納法によってしか見出せないものである。従って彼は原因と結果の結びつきを我々の心の習慣にすぎないものと考え、『人間知性研究』で以下のように述べている。 すべての出来事は完全にばらばらに分離(loose and separate)しているように思える。一つの出来事は別の出来事に続いて起こる。しかし、私たちはそれらの出来事の間にいかなる結びつきも決して見出すことはできない。それらは連接(conjoined)しているように見えるが、結合(connected)しているようには決して見えない。 因果関係の特徴はとは「必然性」、つまり「でなければならない(must)」という考えにあるが、しかし原因と結果の間に必然的な結合と言えるような結びつきはなく、「である(be)」あるいは「起こる(occur)」でしかなく、「must」は存在しないと彼は主張した。因果関係といわれる二つの出来事のつながりは、ある出来事と別の出来事とが繋がって起こることを繰り返し体験すること、すなわち「恒常的連接(constant conjunction)」を発見することによって、観察者の中に「因果」が成立しているだけのことであり、この必然性は心の中に存在しているだけの蓋然性でしかない。過去と未来の出来事の間に必然的な関係はありえず、「原因」と「結果」といわれるものを繋いでいるのは、経験に基づいて未来を推測するという心理的な習慣であるという。 この因果関係論のエッセンスをわかりやすく例えれば、持っていた石を手放したら地に落ちるということが10回続いたからといって、11回目もそうなるとは限らないということである。ただしヒュームは因果関係が存在しないことを主張しているのではない。ヒュームの論旨は、因果関係は論理的な関係でなく自然的な関係であるということである。ヒュームは経験によって帰納的に法則を見出し、 自然の斉一性仮説を提唱したと考えることができる。ただし今までそういう法則があったからといって、これからもその法則が持続することは論理的に保障されないということがヒュームの論旨であり、このヒュームの因果関係論からはグルーのパラドックスが派生することになる。 そのヒュームに対し、一般化できない特異な、分割も比較もできない出来事が継起するのが事物の本来のありかた(持続)とするのがベルクソンである。科学の記述は持続をそのまま記述することはできない。同一性によって持続を記述しようとするためアキレスと亀のような錯誤が生じるとベルクソンは考える。 バートランド・ラッセルは、因果関係の必然性を否定したヒュームの懐疑論を克服した哲学は、カントをはじめとしたドイツ観念論も含め、いまだに現れていないとの見解を示している(『西洋哲学史』)。また現代の科学哲学においても、ヒュームの因果関係論は重要な問題として議論されている。 なおヒュームの因果関係論に対しては、ジェイムズ、ホワイトヘッド、パースなどアメリカン・リアリズムに属する立場の哲学者から批判がある。ジェイムズは、「経験どうしの関係はそれ自体が経験される」として、実在的なものとして扱うべきだと主張している。 実体 ヒュームは現象主義の立場から、実体の概念について、個々の知覚をもたらす原因として客観的に在ると想定されたものにすぎないとしている。物体の客観性や同一性という概念は、経験によって得られた信念である。物体についての知覚はあくまで印象であり、その背後に実体があることを意味するわけではない。精神もまた実体ではない。精神とは絶え間なく生成消滅する知覚の束にすぎないのである。 自我の否定 デイヴィッド・ヒュームはデカルト批判を透徹し、コギト=自我そのものの存在を解体した。ヒュームの方法はオッカムとバークリーの経験論を継承して極限まで進めたものだ。バークリーによれば存在するものは全て、実在でなく自我の中における感覚・表象の束にすぎない。ヒュームは更に問う。その自我なるものは存在するか? そう問うのは一体何なのか? 自我という感覚・表象は実際に無い。我々はさまざまな観念から「自我」という抽象概念を抽出しているだけなのである。「自分」と呼ばれるものの中を詳しく見ればわかる。そこにあるのは個別的な感覚や観念だけである。その個別的な感覚や観念なしには決して「自分」と呼ばれるものを捉えることはできない。つまり自我というものはさまざまな感覚・観念の経験によって構成されたものであり、実在ではない。水面に現れては消える泡のような個別的な感覚・観念たちが、「私の感覚」「私の観念」とすり替えられ、個別的体験の結果に過ぎないものたちから原因、すなわち「主体」となるものを想定した結果、作られたのが自我という抽象概念なのである。このヒュームの自我論は、たとえるなら中世普遍論争において、「自我」について唯名論の立場を取ったものである。 ヒュームは自我(魂)を共和国にたとえる。共和国では、部分としての個々の人々は相互に結び合わされており、その部分が絶えず入れ替わり変化するなかにあって、この同じ共和国を伝えていく他の人々を生み出している。共和国はその成員を変えるだけでなくその法律や組織も変えることができる。それと同じように、個人がその同一性を失うことなく、印象や観念だけでなく性格や気質を変えることができる。彼がどんな変化を受けようとも、彼の個々の部分は因果性の関係によってなお結合されているとする。 ヒュームの観念論と自然科学の関係 自我までも否定し、全てを「知覚」に還元するヒュームの現象主義は、いわば裏返しの唯物論であり、原子論の「原子」を「知覚」に置き換えたような構造となっている。これは自然科学が前提にしてる科学的実在論と完全な表裏の関係となり、相性がいいかもしれない。ジョン・サールの見解によれば、現代の哲学者のほとんどは、自我の問題についてはヒュームの考えに同意しているという。これは現代の分析哲学の多くが、自然科学の知見を前提とした自然主義を前提にしているからであり、超越的な自我、つまり精神や肉体を超えて個人の人格の同一性を担保する「何か」の存在を認めるのは、自然科学の立場上困難だからだ。しかし「心」というものを継起する知覚の束であるとするヒュームの立場を取るならば、その「何か」を想定する必要が無いのである。 イマヌエル・カントはヒュームが解体したルネ・デカルトの「コギト(自我)」を、「物自体」を想定した上で、さらに全ての表象に「我思う」を伴わせる力として悟性の統覚の能力を想定して「形式」として復活させた。しかしその物自体も厳密に分析し、解体していけば、やがて時間や延長さえ必要のないものになり、最終的には単に表象をもたらす「能力」にまで還元できる。そのことを見抜いたショーペンハウアーは物自体を「意志」と置き換えるわけであるが、ヒュームの哲学からすれば、その「意志」は自然の「法則」であり、かつ斉一性があるに過ぎないということになる。 派生問題――知覚の同一性と意識の連続性 (以下は管理者の見解) ヒュームは知覚の重要な原則として、 1、われわれの別個な知覚はすべて別個の存在であること 2、その別個の存在の真の結合をわれわれは何も知覚しないこと という二つを挙げ、その二つの原則は両立しない矛盾したものと考えていたとは重要である。これはおそらくヒュームが自我を「共和国」との類比で理解していたことと関係するのだと私は考える。「共和国の成員は時代によって変わるが、共和国はそのままである」とするならば、そもそも共和国という「枠組み」は何によって成り立ち継続するのか、と疑問が生まれるからだ。 ヒューム本人は「もしもろもろの知覚が別々に存在するのなら、それらが一つの全体を作るのは、ただ結合されることによってだけである」(『人性論』p.135)と述べている。 ヒュームの疑問への解答として、カントは「統覚」の能力を想定したと思われるが、しかし生成消滅する知覚・観念が真に個別的であるというなら、 数ある観念のうちには個別の観念たちの紐帯となる「我思う」というような自己を省みるタイプの観念がある、と考えればいいだけのはずである。ちなみに、アルフレッド・エイヤーはヒュームが矛盾だとした知覚の二つの原則は、論理的に矛盾していないと分析している。 「自己」や「私」というものを、それ自体で存在するものでなく、別個な知覚の集合であるとした場合、前述のように数ある観念のうちには個別の観念たちの紐帯となる「我思う」というような反省的なタイプの観念があると考えれば、人格の同一性について深刻なアポリアは生じないと思えるが、それでも「知覚」の同一性について疑問が残ることになるはずである(これは人格の同一性における派生問題として別に考究しているので参照されたい)。 また、意識の連続性についても問題が派生するだろう。私の意識は夜寝るまで、覚醒しているときはずっと持続的に存在しているような感じがある。反省的意識や記憶の想起などによって自己を省みるような意識現象が生じた時だけ、「私」が存在しているようには思われない。もし知覚がそれぞれ別個な存在であるなら、眠りから覚めたときに感じるような意識の断絶感が、昼間の覚醒時にも頻繁にあってよいような気もする。しかし、そのようなことがないのは実感としてだけでなく、科学的にも確かなようであり、脳波というものを測定すれば覚醒時と睡眠時は明らかに異なるパターンを示している。つまり覚醒時は、私の心は常にアウェアネスな状態にあり、それが継続しているようである。このことから、なぜ自己、または「私」は、途切れることなく存続しているのかという疑問が生じる(ヒュームが「矛盾」を感じたのは自然なことだろう)。この意識の連続性問題はきめの問題や意識の境界問題と関係しているかもしれない。 心の哲学の立場からすれば、この問題は意識というものを、多数の意識トークンの連続とみなすことで解消するしかないかもしれない。つまり意識は絶え間なく持続しているのではなく、たとえば毎秒十数回発生している程度のものと考えるのである。脳波を測定すれば常にアウェアネスの状態にあるように見えても、実は連続して見える映画が一秒間に二十四コマであるように、アウェアネスな状態も一秒間に十数回程度かもしれないということだ。もし純粋に持続しているとすると意識は無限分割が可能なことになり、これは人間の脳細胞の処理能力から考えても不可能である。私は覚醒時に何かの「変化」を知覚しても、眠りから覚めた時のような意識の断絶感を感じることはない。しかしそれは実は相対的な問題であって、覚醒時には僅かなインターバルで「私」の正体といえる反省的意識が生じているので、実際には意識の断絶感はあるのに、それと気づかない、また気づく必要が無い程度のものなのかもしれない。眠りから覚めた時は大きな「変化」を知覚するので、意識の断絶感も大きいというだけかもしれないのだ(この意識の連続性問題については、ジョン・サールが『MiND-心の哲学』で言及している(p.369)。またデイヴィッド・チャーマーズも『意識する心』において「意識の一貫性」という形で僅かであるが触れている(p.378)。よろしければ参照されたし)。 なお、穿った考え方かもしれないが、ヒュームが知覚の二つの原則を矛盾だとしたのは、無主体論的な立場では「今この私」という特異点の説明ができないことに気づいていたからかもしれない。私が今ここで偶然生まれた一個の観念に過ぎず、すぐに消え去る存在なら、「なぜ他の観念が〈私〉ではなかったのか?」と疑問に思わざるを得ないからだ。ただし、このような疑問はデカルト的自我――「主体」を想定する立場でも類比的に提起されることになる。すなわち、「なぜ〈私〉は1990年に東京で生まれた人物Aなのだろう? ニューヨークで生まれた人物Bが〈私〉であってもよかったはずだ」、というように。このような問題は意識の超難問として考察されている。つまりヒュームの感じた矛盾は、デカルト的自我を想定したとしても、問題がスライドされるだけとなる。なお、このような無主体論が孕む問題については、ヒュームと同型の無主体論を選択した大森荘蔵のページで、無主体論と独今論というテーマで考究している。よろしければ参照されたし。 参考文献 デイヴィッド・ヒューム『人性論』土岐邦夫・小西嘉四郎 訳 中公クラシックス 2010年 木田元『マッハとニーチェ 世紀転換期思想史』新書館 2002年 神崎繁、熊野純彦、鈴木泉 編集『西洋哲学史4』講談社 2012年 ジョン・R・サール『MiND 心の哲学』山本貴光・吉川浩満 訳 朝日出版社 2006年 真船えり「ヒュームにおける人格の同一性について」哲學 103, 35-56, 1998-12 参考サイト http //ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%A4%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%92%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%A0
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登録日:2012/02/01 Wed 19 28 07 更新日:2023/01/14 Sat 02 25 09NEW! 所要時間:約 4 分で読めます ▽タグ一覧 まじこいS チート ヒューム・ヘルシング 執事 最強 真剣で私に恋しなさい!! 繁華街の詳しさは随一 高校生 黒瀬鷹 もしかして ルガール・バーンシュタイン? もしかして:桐生一馬? △メニュー 項目変更 「画面端に叩き付けてやろうか?」 -アニヲタWiki- 「この俺から見れば赤子同然よ」 ヒューム・ヘルシング CV:黒瀬鷹 九鬼従者部隊No.0に立つ老執事で九鬼が抱える戦闘者の中でも最強の実力者。 九鬼揚羽の師匠でもある。 老年とは思えない精悍な顔付きと肉体を持ち、常に威圧感ある態度で他人に接する。 九鬼に仕える理由は「俺が仕えるに値するから」 先祖はヘルシングの姓からなんとなく分かるように吸血鬼狩りの専門家……だが吸血鬼とは伝説上の怪物ではなく百代のように瞬間回復能力を持つ戦士との事。そういう家系の為、当然ヒュームも倒し方を知っている。 現在は九鬼紋白の護衛を務めており、大抵は彼女と共にいる。学園生活でも例外はなく、紋白と共に川神学園1-Sに編入した。 【作中の行動】 紋白と共に初登場。同じ学生になるという展開に大和達の度肝を抜いた。 何故か百代に対しては挑発的に接し、彼女のスキルでも特にチートな瞬間回復の弱点を知っているかのような発言までした。(これはあるルートで実証される) 以下、まじこいSのネタバレが含まれています。未プレイの方は戻る事をオススメします。 紋白ルートでは立場上、彼女の執事となった大和の先輩として振る舞う。相変わらずの赤子呼ばわりだが、彼の人脈には一目置いている。 終盤、紋白に関するとあるイベント時の彼のリアクションに注目。 燕ルートでは大会を拡大。色々と暗躍する。 実はとある姿でエントリーしている。ちなみに揚羽とタッグを組んで……。 どうやって勝てと? と思われたが、実は不信人物のチェックと英雄に無茶をさせない為、エントリーをした。なので英雄 準戦で棄権した。が不信人物のロリコンハゲだけはヒュームが徹底的に制裁した。 「もしかしてぇー! 極道の如き制裁ですかぁ!?」 「正解っ!」 その後、自身が用意した刺客の松永燕と百代の試合を観戦。 全ては同年代との戦いで百代にショックの大きい敗北を教え、更なる高みへ導く為の行動であった。 そして彼の目論見通り、百代は燕に敗北し、更なる高みを誓った。 とあるルートではラスボスとして君臨。 武士道プラン成就の為、主である紋白すら裏切り、百代らと敵対した。 真意はマープルへの借り返しと若者達の力を試す為。 彼との決戦地は宇宙。 凄みのある笑みを浮かべながら宇宙空間に立つ彼の姿はカッコいい。 圧倒的な武力で百代を窮地に追いやるが、次第に彼女に食らい付かれ、かわかみ波との撃ち合いに敗れ、地上に落下した。 最期の瞬間、彼の顔には穏やかな笑みがあった。 生きていましたが 事件後は降格 しばらくタダ働きの処分を下されるが、別段変わる事なく紋白の下で再び辣腕を振るっている。 【必殺技】 ◆ジェノサイドカッ(ry⊂ ふんっ! ◆ジェノサイドチェーンソー ヒュームの代名詞たる蹴り技。 格ゲーで言えば「体力の最大値10割削る威力」 つまり即KO技。リアルにいればゲーム機に怒りの鉄拳を降り降ろしかねない性能である。 その威力は冗談抜きにヤバく、燕は戦闘不能一歩手前に、揚羽は一撃で昏倒した。 ◆波動(正式名不明) 掌から撃つ気のビーム。 百代で言えばかわかみ波にあたる技。 あっちがオレンジなのに対し、こっちは青白い色。 威力はほぼ互角だが、最終決戦での競り合いに負けた。 「選べ。荒らしか、それとも全消しか」 「ひ……一思いに荒らしてくださーい!」 「不正解っ」 「じゃ、じゃあ全消し?」 「それもNOっ!」 「も、もしかしてぇー極道の如く追記ですかぁ!!」 「正解っ! 修正っ!」 △メニュー 項目変更 この項目が面白かったなら……\ポチッと/ -アニヲタWiki- ▷ コメント欄 [部分編集] なんとなく夜行Bにも似てる -- 名無しさん (2013-11-03 02 57 07) いい声してる。かっこいい -- 名無しさん (2015-01-07 17 47 42) 名前 コメント
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キャラ紹介 歴代 キャラ紹介 エレノア・ヒューム(Eleanor Hume) 【テイルズオブベルセリア】 「私は目をそらしたくありません。自分が選んだ道の先にある現実から」 対魔士の組織「聖寮」に所属する女性。 高い能力を持つ一等対魔士として、日夜、業魔の恐怖から世界を解放するために奔走している。 とても真面目な性格で、他人への思いやりを忘れないが、常に正しいことを正しく行おうとする堅物な面がある。 素直なため、感情が表に出やすいところを、自らの未熟さと自覚したうえで、 非常な「理」に徹するべく努めている。 業魔から世界を守る対魔士として、聖寮に牙を剥くベルベットと幾度も刃を交えてるが、 ある事情で、不本意ながら彼女達と行動をともにすることになる。 声:小清水 亜美 年齢:18歳 身長:165cm 武器:槍 戦闘タイプ:一等対魔士 種族:人間 (以上、公式HPより引用) 歴代 初代 【PL名】雪白様 【メインサブ】メイン 【登録期間】2016.9.10~2017.3.31《卒業済》