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ハローノストラ はろおのすとら【登録タグ:VOCALOID キャプミラP 曲 曲は 曲はろ 鏡音リン】 曲情報 作詞:キャプミラP 作曲:キャプミラP 編曲:キャプミラP 唄:鏡音リン ジャンル・作品:VOCALOID カラオケ動画情報 オフボーカルワイプあり コメント 名前 コメント
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はろーのすとら【登録タグ CD CDは キャプテンミライCD 全国配信 映像作品】 前作 本作 次作 エンドレスE.P. 積雪ロックハローノストラ 目隠しのステップ iTunes Storeで購入する キャプテンミライ 流通 配信 発売 2009年12月27日 価格 ¥300 レーベル KarenT CD紹介 鏡音リン・レン2周年を記念して配信された、キャプテンミライのPV作品。 KarenTでの映像作品の配信は、Tripshots氏の「Nebula」に次いで2作目。 「リンとロックバンドを組んだら・・」という設定の曲で、キャッチーでどこかひねくれた曲にキャプテンミライ本人によるセンス溢れるPVが付けられている。 『ハローノストラのPVはニコニコにアップしたときはエコノミー回避のためにガタガタ動画になっていましたが、DL版はヌルヌル動く! はずです!!』(本人ブログより) 曲目 ハローノストラ リンク 作者ブログでの告知 KarenT:「ハローノストラ」 リン・レン2周年記念リリースの告知@KarenT コメント 名前 コメント
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【検索用 はろーのすとら 登録タグ 2009年 VOCALOID は キャプテンミライ 曲 曲は 鏡音リン】 + 目次 目次 曲紹介 歌詞 コメント 作詞:キャプテンミライ 作曲:キャプテンミライ 編曲:キャプテンミライ 唄:鏡音リン 曲紹介 曲名:『ハローノストラ』 キャプテンミライ×リンが組んだバンド「リン&フューチャーナウ」のオリジナル曲。 この曲を、惜しくも休刊が決定してしまったパンク雑誌「DOLL」に捧げます、青春をありがとう!(作者コメ転載) サークルOutWaveClusterのコンピアルバム、「Greatest misses」収録曲。 歌詞 ぐるぐるで しましまで プラスとマイナスの間で 行き止まり また吹き溜まり アンゴルモアの成れの果て 発見、フューチャーナウ! 右かと思えばこっちが左? 確認、フューチャーナウ! 抱えた頭が実は腹!? 僕らの世界はどんどん加速して 限りなくゼロになって消えて行く 点を打て ただ線を引け 夕暮れが夜に負けないように 目隠しで 手探りで 完全密室紐を解く 量子力学と黒魔術 アリバイ無し 手がかりも無し 断然、フューチャーナウ! 過去かと思えばこっちが未来? 反省、フューチャーナウ! 時計の針は止まっているぞ!? あの夏の風もどんどん遠くなり 今では彼方をそっとそよぐだけ 目を閉じて じっと噛みしめて 衝動が嘘に消えないように 僕らの世界はどんどん加速して 限りなくゼロになって消えて行く 天を撃て ただ線を引け 夕暮れが夜に負けないように フューチャーナウ!×3 コメント リンちゃんかわいすぎです -- 名無しさん (2009-06-19 11 52 22) センスありすぎ…! -- 名無しさん (2009-06-20 18 43 38) リンかわええ!キャプテンミライさん大好きだあ! -- 名無しさん (2009-06-20 20 39 32) 最高すぐる… -- 名無しさん (2009-06-21 07 25 50) ふゅーちゃーなぁう↑ が好きだ。 -- 名無しさん (2009-06-29 21 18 02) うおおキャプテンミライさんのロックきたああああ!すげえ! -- 名無しさん (2009-06-29 21 26 34) 調教すごすぎる! -- 名無しさん (2009-07-07 18 11 56) リピートがとまらないです! -- 名無しさん (2009-07-08 12 46 35) かっこよすぎる -- 名無しさん (2009-07-21 16 45 27) かっこいい!リンちゃんかわええ! -- 名無しさん (2009-07-21 18 19 43) なれのはてってとこが好き! -- 名無しさん (2009-07-23 11 39 28) アンゴルモア=恐怖の大王だったのか… -- 名無しさん (2023-07-13 14 49 18) 名前 コメント コメントを書き込む際の注意 コメント欄は匿名で使用できる性質上、荒れやすいので、 以下の条件に該当するようなコメントは削除されることがあります。 コメントする際は、絶対に目を通してください。 暴力的、または卑猥な表現・差別用語(Wiki利用者に著しく不快感を与えるような表現) 特定の個人・団体の宣伝または批判 (曲紹介ページにおいて)歌詞の独自解釈を展開するコメント、いわゆる“解釈コメ” 長すぎるコメント 『歌ってみた』系動画や、歌い手に関する話題 「カラオケで歌えた」「学校で流れた」などの曲に直接関係しない、本来日記に書くようなコメント カラオケ化、カラオケ配信等の話題 同一人物によると判断される連続・大量コメント Wikiの保守管理は有志によって行われています。 Wikiを気持ちよく利用するためにも、上記の注意事項は守って頂くようにお願いします。
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作詞:CaptainMirai 作曲:CaptainMirai 編曲:CaptainMirai 歌:鏡音リン 翻譯:Fe 哈囉諾斯特拉 *1 漩渦漩渦裡 條紋條紋間 站在加與減的中間 以為走到終點 又被吹翻一邊 安哥爾摩亞大王*2 的末路 發現、Future Now! 如果那是右邊這裡就是左邊? 確認、Future Now! 抱頭縮頸的頭其實是肚子!? 我們的世界漸漸加速著 化為無限的0消失而去 打上標點 隨意插針引線 像是夕陽一樣不輸給黑夜 矇上你的眼 摸索著前進 解開這道完全密室謎題 量子力學或是黑魔法 沒有不在場證明 也沒抓到什麼線索 決然、Future Now! 如果那是過去這就會是未來? 反省、Future Now! 時鐘的指針停下來不走了喔。 那個夏天的微風也漸漸遠去 這時悄悄地拂過了原地爾爾 緊閉雙眼 咬牙忍耐 衝動像謊話一樣難以消滅 我們的世界漸漸加速著 化為無限的0消失而去 射穿上天 隨意插針引線 像是夕陽一樣不輸給黑夜 Future Now! ×3 *1 ノストラ = Nostradamus = 諾斯特拉達姆士 法國籍猶太裔預言家,留下以四行體詩寫成的預言集《百詩集》 許多熱心者將其預言與世界主要事件對應分析,並找出應驗的地方。 在現今的媒體和流行文化之中,經常同《聖經密碼》等出名的預言作品相比較。 *2 アンゴルモア / Angolmois / 安哥爾摩亞恐怖大王 由諾斯特拉達姆士預言,據說有一位恐怖大王將在1999年七月降臨地球。 為使安哥魯亞王復活 恐怖大王將從天而落 屆時前後瑪爾斯將統治天下 說是為讓人們獲得幸福生活 更詳細說明見日文WIKI「アンゴルモア」條目或「恐怖の大王」條目 中翻歌詞為簡單表達其意而採某漫畫的音譯。
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ノストラダムス、本名ミシェル・ド・ノートルダム(Michel de Nostredame alias Nostradamus, 1503年12月14日 - 1566年7月2日) は、ルネサンス期フランスの人文主義者で、少なくとも薬剤師・料理研究家、詩人、翻訳者、占星術師としての著作を発表し、自らは愛星家 (Astrophile)と名乗った。また、晩年には国王シャルル9世(未作成)の常任侍医と顧問に任命された。 日本では1999年の人類滅亡を予言した人物として知られているが、そもそもその根拠となった恐怖の大王が登場する詩篇は、本物かどうかすら、実証的には十分に評価が定まっているとは言いがたい。ノストラダムスの予言がその詩篇に収斂していくかのような認識は、それ自体が通俗的なトンデモ解釈の山によって生み出された妄想である。 1980年代以降、ルネサンス期の一人の人文主義者としてノストラダムスを多角的に捉えようとする学術的成果が、主として欧米においていくつも挙げられており、彼の作品への文学的再評価なども目下着実に行われつつある。 この記事では、ノストラダムス自身の生涯について、概略的な情報を提供する。 なお、日本語文献では 「ミシェル・ド・ノストラダムス」と表記されることもある。 たしかに同時代の文献でも、特認の文面、公証人によるノストラダムスの遺言書・遺言補足書、弟ジャン・ド・ノートルダムの著書などに散見されるので、誤りとまでは言い切れないかもしれない。 しかし、本人の著書の題名などでは一度も使われていない以上、適切なものとはいえないだろう。 また、Nostradamus は現代フランス語では「ノストラダミュス」/nɔstradamys/ と発音されるが(*1)、当時の韻文の書かれ方などを元に、「ノストラダミュ」と読まれていた可能性も指摘されている(*2)。 以上から、当「大事典」では正確な読みを確定させがたいフランス語読みよりも、慣例的な読みとも合致するラテン語読みの「ノストラダムス」を使用する。 【画像】息子セザールによる肖像画(1614年頃)(*3) 出生 ノストラダムスは1503年12月14日木曜日に、プロヴァンス州サン=レミの公証人ジョーム・ド・ノートルダムとその妻レニエール・ド・サン=レミの長男として生まれた。 第一子か第二子かについては議論がある。 出生記録や洗礼記録は確認されていないが、個人的な手紙で12月12日を誕生日の2日前と語っていることなどから、間接的に裏付けられている(*4)。 ただし、パトリス・ギナール(未作成)は12月21日とする新説を唱えている。この点について詳しくは記事「ノストラダムスの誕生日」を参照のこと。 なお、ノストラダムスの秘書だったことがあるジャン=エメ・ド・シャヴィニーが主張しだした正午ごろに生まれたとする説は、裏づけとなる資料が確認されていない。 また、出生に関する直接的な記録がない以上、アーサー・クロケットなどが主張する 「ノストラダムスの誕生時にサン=レミ上空に見知らぬ光が現れた」などということは、実証的には全く支持できないし、神秘性を強調しようとした創作と見るのが自然だろう。 教育・学歴 ジャン=エメ・ド・シャヴィニーは、ノストラダムスが幼い頃には母方の曾祖父 (ジャン・ド・サン=レミ) が「天体の科学」についての手ほどきをしたと述べていた。 現代ではさらに医学、数学、各種外国語、はてはカバラなどまで教育したといわれることがあるが、ジャン・ド・サン=レミは1504年頃、つまりノストラダムスが1歳になるかならないかという時点で没していた可能性が高いため(*5)、彼が教育を施したとは考えられない。 また、父方の祖父ピエール・ド・ノートルダムないし母方の祖父ルネ・ド・サン=レミが教育係になったといわれることもあるが、どちらもノストラダムスが生まれる前に亡くなっており、彼らが教育を施した可能性はジャン・ド・サン=レミ以上にありえない。 ノストラダムスは、15歳前後(1518年頃)にアヴィニョン大学に入学し、自由七科を学んだようである。この点は実証的な伝記研究でも確実視されているものの(*6)、史料的な裏付けはなく、入学時期もはっきりしない。 在学中には学友たちの前で素晴らしい天体知識を披露して「小さな占星術師」(le petit astrologue) と呼ばれるようになったという話も有名だが、1789年の著者不明の創作的な伝記 『ノストラダムスの生涯と遺言』で登場する話であり(『ミシェル・ノストラダムスの生涯と遺言』の伝記第2節b参照)、信頼性に欠ける。 このアヴィニョン大学在学が事実だとしても、1520年にペストの影響でアヴィニョン大学をはじめとする南仏の大学の講義が停止されたことから(*7)、ノストラダムスもこのころに大学を出ざるをえなかったと考えられている。 ノストラダムスは1521年から1529年まで各地を遍歴し、1529年10月23日にモンペリエ大学医学部に入学した。これを再入学と位置付ける見解もシャヴィニー以来根強く存在するが、入学宣誓書などの記録から事実上否定されている。 博士号を取得できたかどうかは不明であり、当時の学生出納簿ではノストラダムスの名は抹消されているため(*8)、おそらく除籍されたのだろう(*9)。 除籍の場合、もちろん博士号は取れていなかったことになる。 博士号取得後に1年間、モンペリエ大学で授業を担当したという伝説もあるが、これは17世紀の匿名の解釈書『ミシェル・ノストラダムス師の真正なる四行詩集の解明』で初登場したものであり(1656年の伝記第8章第2節参照)、真実であるとは考えられない。 結婚から放浪へ 1530年代初頭に人文学者ジュール・セザール・スカリジェール(未作成)(ユリウス・カエサル・スカリゲル) の招きを受けたこともあり、ノストラダムスはアジャンへと移住した(*10)。 1531年にはその町のアンリエット・ダンコスと結婚したようである(*11)。結婚は1532年の可能性もある。 最初の妻をアドリエット・ド・ルーブジャックとする文献もあるが、スカリジェの妻の名と混同された誤伝にすぎない。 アンリエットとの間には子供が生まれたらしいが、性別や人数ははっきりしない (シャヴィニーは男児と女児が1人ずつと述べているが、裏付ける資料はない)。 しかし、まもなく妻と子供は病気によって亡くなったらしい。 ペストの可能性が指摘されるが、シャヴィニーの伝記でさえもその死因は書かれていないので、断定できる状況にない。ノストラダムスが各地の治療に忙殺されている間に、自宅に残された妻子がペストにかかって治療を受けられなかったなどと語られることもあるが、すべて後世の脚色である。 また、スカリジェとの仲が悪くなった上に、1538年春にはトゥールーズの異端審問官から「聖人を冒涜した」という咎で召喚を受けたようである(*12)。 プロテスタント系の医師フィリベール・サラザンが召喚された際に、交流のあったノストラダムスも巻き添えにあったという説もあるが(*13)、いずれにせよ、ノストラダムスはこの召喚には応じずに旅に出た。 このころの話としては、ロレーヌ地方のフロランヴィルの領主の居城に逗留し、白豚と黒豚に関する見事な予言を披露したとされるが、これもまた『ミシェル・ノストラダムス師の真正なる四行詩集の解明』 で登場したものであり、非常に疑わしい。 ほかにオリヴァリウスの予言(未作成)やオルヴァルの予言(未作成)とも結び付けられたりもするが、それもまた根拠のない話であり、それらの予言はほぼ間違いなく19世紀の偽作である。 ペスト治療医 長い放浪を続けたノストラダムスは、1544年にマルセイユ(未作成)の医師ルイ・セールに師事したとされる(*14)。 現在では翌年にマルセイユの3人の囚人の診察をした記録も発見されている(*15)。 1546年にエクス=アン=プロヴァンス(未作成)でペストが大流行した時には、ペスト治療の医師または薬剤師として市当局から雇われた。1546年6月付の契約書は現存しており、市の会計簿にも同様の記録が残っている。 しかし、そこで行われた治療は芳香性の丸薬などを処方するもので、伝統的なペスト治療の手法と大きく異なるものではない。通俗的には、ノストラダムスが未来の消毒法や治療法を先取りしていたかのように述べる文献も多いが、それらのほとんどは根拠がない(*16)。 再婚 その後、ノストラダムスはプロヴァンス州サロン・ド・クローに落ち着き、1547年11月11日に未亡人アンヌ・ポンサルドと再婚した。 ノストラダムスは終生この街で過ごすことになるが、1年程度の旅行で家を空けることは何度かあった。最初の旅行は、再婚後間もなく行われたイタリア旅行であり、処方箋などからはヴェネツィア、ジェノヴァ(未作成)、サヴォーナ(未作成)などを回ったらしいことが窺える(*17)。 ただし、将来シクストゥス5世となる若者の前でひざまずいて教皇になると予言したエピソードは、ほぼまちがいなく創作だろう。 1553年には町の名士として公共の泉の碑文(未作成)を起草している。 また、1550年代後半にはクラポンヌ運河の建設に出資したりするようになる(*18)。 アンリ2世との関係 こうした活動と並行して、翌年1年間を予言した暦書の刊行を始めた。 最初に刊行されたのは1550年向けの暦ないし占筮で、1549年頃に出された。暦書は毎年のように刊行され、『予言集』の執筆につながった。 1555年5月に初版が出された『予言集』は、4巻の途中までしかない不完全なものではあったが、大きな反響を呼び起こしたとされる(*19)。 ただし、そのわずか2ヶ月ほど後に、国王アンリ2世と王妃カトリーヌ・ド・メディシス(未作成)から招待を受けたのは、『予言集』の反響ゆえではなく、時期的に言っても『暦書』の予言が原因だった (*20)。 翌月に王宮で行われた謁見では成功をおさめ、褒美を賜ったとされるが、会見内容は不明である。アンリ2世の不吉な未来を直言したとも言われるが、全く根拠はない。 当「大事典」としては、暦書に掲載されたアンリ2世への献呈文の内容から考えて、むしろ言われているほどうまく行かなかったのではないかとも考えている。 褒美を賜った以上、不興を買うまでには至らなかったにせよ、その褒美にしても金額は十分ではなかったとも言われており、アンリ2世の覚えがめでたくなったとは考えづらい(*21)。 カトリーヌはそれとは別に、ノストラダムスを個人的に呼んで子供たちの未来を占わせたようである。 ヴェネツィア大使ジョヴァンニ・ミキエルの報告書にもその予言は見られるが、原文に即する限りでは、的中したとみなすのは難しい。 なお、恐怖の大王は目に見えない存在だとカトリーヌに述べたという、いわゆるブロワ城の問答も史実ならばこの時期に当たるが、時期設定などの内容があまりにも支離滅裂なため、創作と見るのが自然だろう。 1559年には、アンリ2世はモンゴムリ伯ガブリエル・ド・ロルジュ(未作成)との馬上槍試合で致命傷を負い、10日後に没した。 通俗的な説では、当時これが詩百篇第1巻35番の情景通りだったとして大反響を巻き起こしたことになっているが、そのような記録は全くない。ノストラダムス自身が文人ヴォゼルにあてた献辞の中で、別の詩によって的中させたことをそれとなくほのめかしている程度である。 フランソワ2世、シャルル9世との関係 アンリ2世の次に王となった長男フランソワ2世(未作成)は病弱で、1560年後半の宮廷では、ノストラダムスの予言を引用しつつ、王が年内に没すると噂されていたという。 ヴェネツィア大使ミケーレ・スリャーノ(未作成)やトスカナ大使ニッコロ・トルナブオーニ(未作成)らの外交書簡が伝えているのでそれは史実だったはずだが(*22)、彼らが引用している予言はノストラダムスの作品にはない。 どうも噂される中で、ディティールに関する尾ひれがつきまくったのではないかと思われる。 ノストラダムスは数多くの相談を受ける立場にあり、現存する往復書簡は、大実業家ハンス・ローゼンベルガー、その仲介役をつとめた法学者ロレンツ・トゥッベなどとのやり取りを伝えている。 1564年には、フランソワ2世の後を継いだ弟の国王シャルル9世(未作成)一行の訪問を受けた。 フランス各地をまわる大巡幸の途上にあった国王一行は、わざわざノストラダムスに会うためだけにサロンに立ち寄り、アンペリ城で会見をした。 随行していた少年アンリ・ド・ナヴァル (のちの国王アンリ4世) の裸を見て、国王になることを予言したとされるエピソードもこのときのことである。その話も鮮やかではあるが、細部には色々と疑問がある(*23)。 さて、大巡幸中のシャルル9世は、その後アルルに逗留した折にノストラダムスを呼び出し、彼に「常任侍医」および「顧問」の称号を下賜したようである。 この正確な時期は確定できていないが、息子セザールの証言通りアルルでのことだったのなら、公式日程の記録からいって1564年11月16日から12月17日の間だったことになる(*24)。 なお、これは名誉上のものであり、ノストラダムスが宮廷に出仕したわけではなく、彼が国王から何らかの称号を賜ったのはこれが唯一であった。 アンリ2世の宮廷で仕えていたなどといった通俗的な説は、史実としては全く支持できない。 最期 その後のノストラダムスは、痛風もしくはリウマチと思われる症状に苦しめられていたようである。 そして1566年6月には公証人ジョゼフ・ロシュ(未作成)を呼んで遺言書・遺言補足書を作成した。 7月1日夜には秘書シャヴィニーに「夜明けに生きている私を見ることはないだろう」と語ったとされるが(*25)、シャヴィニー自身の証言以外には何ら裏付けがない。 また、1567年11月向けの予兆詩で寝台と長椅子の間で死ぬことを予言しており、予言通りに死んでいたなどと言われることもあるが、こうした解釈は19世紀のフランシス・ジロー、ウジェーヌ・バレスト、アナトール・ル・ペルチエらが具体的根拠を挙げない形で主張しだしたものにすぎず、まず間違いなく創作だろう。 ノストラダムスは地元サロンのフランシスコ会修道院付属聖堂に葬られたが、後に移葬された。 五島勉はこの附属聖堂に関し、聖フランソワの闇の掟という伝説を紹介したが、ほぼ間違いなく創作である。 現在は同市内のサン=ローラン教会(サン=ローラン参事会聖堂)にノストラダムスの墓がある。 遺産 ノストラダムスは遺言書などの規定に従うならば、現金・債権・宝飾品などの形でかなりの財産を持っていたらしい。 しかし、それを受け継いだ者たちが (特に形見となる品々について) どのように扱ったのかはよく分からない。ノストラダムスの所持品だったとされるもので現在まで伝わっているのは、ごく一部の蔵書とわずかな手紙類のみである。 自宅の地下室や墓の壁を壊したら新予言が見付かっただのという、センセーショナルな「遺産」が取りざたされたことは17世紀以降何度もあるが、いずれも偽作と見るべきだろう。 特に日本で有名なクロケットの四行詩はひとつ残らず偽作と見て間違いない。 関連項目 ノストラダムス研究史 ノストラダムス現象 ノストラダムス関連年表 外部リンク ノストラダムス(Wikipedia日本語版の記事)主執筆者は当「大事典」管理者でもあるsumaruで、この記事は「秀逸な記事」に選出されている。 ※記事へのお問い合わせ等がある場合、最上部のタブの「ツール」>「管理者に連絡」をご活用ください。
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ノストラダムスの知名度にあやかり、一族の者でないにもかかわらず、ノストラダムス姓を名乗った偽ノストラダムスというべき人物は何人もいる。 16世紀には、少なくとも ノストラダムス2世 アントワーヌ・クレスパン・ノストラダムス フィリップ・ノストラダムス の3人が現れた。関連して、ノストラダムスの甥やノストラダムスの弟子を勝手に名乗った者たちも複数いた。 17世紀以降の暦書には、ノストラダムスの名を冠したものが多かったが、それらは当然ノストラダムス本人とは何の関係もない匿名のパンフレット作家たちの著作に過ぎない。 19世紀イギリスではガブリエル・ノストラデイマス、マーリン・ノストラデイマス(未作成)という2名が登場したが、少なくともガブリエルの方はノストラダムスとの血縁関係を主張するなどはしていないため、権威付けのペンネームにすぎなかったものと思われる。 権威付けのペンネームということで言えば、20世紀日本のシーザー・ノストラダムス、ミカエル・ド・セザール(未作成)、ミカエル・ヒロサキ(未作成)、および21世紀アメリカのダニエル=ジョン・エゼキエル・ド・ノストラダムスなども、それに類するとはいえるだろう。 風変わりなのは20世紀末に現れたフランスの女性占い師ローラ・ダムス(未作成)で、彼女は直系の末裔であると主張していた。 名前 コメント
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ノストラダムスの甥は、ノストラダムスの弟や妹の子供(男子)のこと。史料的に裏付けられる範囲では7人が確認できるが、いずれも特筆されるような業績は残していない。 しかし、16世紀半ばから17世紀初頭の偽ノストラダムスたちは、しばしば権威付けに「ノストラダムスの甥」と名乗った。ジャン・ド・ノートルダムはこのような風潮に対し、知人宛の手紙の中で、ノストラダムスの縁者であるかのように騙る占星術師たちはいずれも偽者であると断じている。 「ノストラダムスの甥」という名称はその後途絶えていたが、19世紀になると、暦書の名義として使われるようになった。『ノストラダムスの甥による1849年向けの絵入りの有用な予言暦』(Almanach Prophétique, Pittoresque et Utile pour 1849, Publié par neveu de Nostradamus(未作成))がそれである。もともとこの暦書は「『ノストラダムス』の著者」(l’auteur de Nostradamus)という名義で始まったものだった。ここでいう『ノストラダムス』とは、1840年に出版された著書の名前であり、つまり「『ノストラダムス』の著者」とは、ウジェーヌ・バレストのペンネームに過ぎなかった。 しかし、1849年向けから、「ノストラダムスの甥」という名義に変更された(*1)。なぜノストラダムス本人の死後300年近くあとに「甥」などという名義を使用したのか定かではない。ちなみに、バレストやその仲間でノストラダムス家の末裔と見なされているものは当然いない。 実在したノストラダムスの甥 弟ベルトランの子クロード・ド・ノートルダム (ベルトランの子) ジャン・ド・ノートルダム (ベルトランの子) 弟アントワーヌの子ジャン・ド・ノートルダム (アントワーヌの子) エクトール・ド・ノートルダム (アントワーヌの子) クロード・ド・ノートルダム (アントワーヌの子)(未作成) ピエール・ド・ノートルダム (アントワーヌの子)(未作成) ブノワ・ド・ノートルダム(未作成) 甥を名乗った偽者 アントニオ・ルッジェーロ(未作成) フィリップ・ノストラダムス アンリ・ノストラダムス 名前 コメント
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父方の先祖・親類 アストリュージュ・ド・カルカソンヌ(ノストラダムスの五世祖) ヴィタル・ド・カルカソンヌ(ノストラダムスの高祖父) アルノートン・ド・ヴェロルグ(ノストラダムスの曾祖父) ヴァンゲソンヌ(ノストラダムスの曾祖母) ピエール・ド・ノートルダム(ノストラダムスの祖父) トリスタン・ド・ヴェロルグ(ノストラダムスの大叔父) ブランシュ・ド・サント=マリー(ノストラダムスの祖母) ジョーム・ド・ノートルダム(ノストラダムスの父) フランソワ・ド・ノートルダム(ノストラダムスの叔父) アルルのピエール・ド・ノートルダム(ノストラダムスの叔父) カトリーヌ・ド・ノートルダム(ノストラダムスの叔母) バルトロメ・ド・ノートルダム(ノストラダムスの叔母) マルグリット・ド・ノートルダム(ノストラダムスの叔母) 母方の先祖・親類 ジャン・ド・サン=レミ(ノストラダムスの母方の曽祖父) ルネ・ド・サン=レミ(ノストラダムスの母方の祖父) ベアトリス・トゥレル(ノストラダムスの母方の祖母) レニエール・ド・サン=レミ(ノストラダムスの母) ノストラダムスの兄弟 一段下げているのは配偶者や子供たち ドフィーヌ・ド・ノートルダム(デルフィーヌ・ド・ノートルダム) エクトール・ド・ノートルダム ベルトラン・ド・ノートルダムトミーヌ・ルース(ベルトランの妻) クロード・ド・ノートルダム (ベルトランの子)トミーヌ・ド・ノートルダム ミシェル=ベルトラン・ド・ノートルダム ジャン・ド・ノートルダム (ベルトランの子) ジャンヌ・ド・ノートルダム (ベルトランの子) カトリーヌ・ド・ノートルダム (ベルトランの子) リュクレース・ド・ノートルダム ブランシュ・ド・ノートルダム ジャン・ド・ノートルダム アントワーヌ・ド・ノートルダムジャン・ド・ノートルダム (アントワーヌの子) エクトール・ド・ノートルダム (アントワーヌの子) ジャンヌ・ド・ノートルダム (アントワーヌの子) クロード・ド・ノートルダム (アントワーヌの子)(未作成) アンヌ・ド・ノートルダム (アントワーヌの子) カトリーヌ・ド・ノートルダム (アントワーヌの子) デルフィーヌ・ド・ノートルダム (アントワーヌの子) ピエール・ド・ノートルダム (アントワーヌの子)(未作成) ブノワ・ド・ノートルダム(未作成) ダマリー・ド・ノートルダム ピエール・ド・ノートルダム (ノストラダムスの弟) ルイ・ド・ノートルダム ジャン・ド・ノートルダム (早世した弟?) ノストラダムスの配偶者と子供たち アンリエット・ダンコス(死別した最初の妻) アンヌ・ポンサルド(二番目の妻) マドレーヌ・ド・ノートルダム(長女) セザール・ド・ノートルダム(長男)クレール・ド・グリニャン(長男の嫁) シャルル・ド・ノートルダム(次男)アンヌ・ド・ノートルダム (ノストラダムスの孫) アンドレ・ド・ノートルダム(三男) アンヌ・ド・ノートルダム(次女)メルキオール・ド・スヴァ(未作成) ディアーヌ・ド・ノートルダム(三女) 関連項目 ノストラダムスの甥 ※記事へのお問い合わせ等がある場合、最上部のタブの「ツール」>「管理者に連絡」をご活用ください。
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ノストラダムス協会(l Association des Amis de Michel Nostradamus)は、1983年に組織されたフランスの研究グループで、会長はノストラダムス書誌学の世界的権威であるミシェル・ショマラ。 1983年2月8日付の官報に設立が公示されている。直訳すれば「ミシェル・ノストラダムス友の会」であるが、日本では「ノストラダムス協会」と意訳されることが多い。 年1回の割合で機関誌「ミシェル・ノストラダムス研究誌」(Cahiers Michel Nostradamus(未作成))を発行した(1983年-1988年)。機関誌以外にも、1555年版予言集の影印本である『ついに再発見された初版本!「予言集」(1555年)』(La 1ère édition enfin retrouvée! Les Prophéties (lyon, 1555)(未作成), Lyon, 1984)や8ページの文献『ノストラダムスとその時代のカタログ、使用法』(Catalogue Nostradamus Le temps, Mode d emploi, Lyon, 1984)などを出版した。 ほかシンポジウムや展覧会などの開催も意欲的に行っていたようである。現在の活動状況はよく分からない。 理事会構成メンバー 以下は会報第1号に掲載されていた発足当初(1983年)のものである。 会長 ミシェル・ショマラ 副会長 ロベール・アマドゥ(未作成) 書記長 ジャン=フランソワ・エルバ(未作成) 出納係 ジャン=ポール・ラロッシュ(未作成) 理事 セルジュ・ユタン ほかに会員としてジャック・アルブロン、ミシェル・シモナン(未作成)、ロベール・ブナズラ、ルネ・シャピュス、ミシェル・モランなどがいたようである(*1)。 もうひとつの「ノストラダムス協会」 セルジュ・ユタンの『ノストラダムス予言集』1978年版には、サロン=ド=プロヴァンスに本部をおくほぼ同名の団体、「ノストラダムス友の会」(la Société des Amis de Nostradamus)への言及がある。その会長はA.-M. ミロー(未作成)という人物だという。この団体と、ショマラを会長とする団体との関係は不明である。 ロベール・ブナズラはミローを「ノストラダムス作品を広めるための国民協会」(l Association Nationale pour l Illustration de l Oeuvre de Nostradamus)の会長としているが(*2)、同じ団体なのかなどはよく分からない。ちなみにこの「ノストラダムス作品を広めるための国民協会」の方は、ノストラダムス没後400周年に当たる1966年に設立されたものだという(*3)。 ※記事へのお問い合わせ等がある場合、最上部のタブの「ツール」>「管理者に連絡」をご活用ください。
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ノストラダムス現象は、ノストラダムスとその作品が影響を及ぼしてきた様々な事象のことである。 ノストラダムスは、『予言集』や翌年一年間を予言した『暦書』類などの形で様々な 「予言」 を残した。 彼の (主として暦書で展開した) 予言は同時代でも様々な反応を惹き起こし、とりわけ同時代においては批判者や中傷者、さらに便乗的な偽者や模倣者を生み出した。ノストラダムスの予言は死後も大事件のたびに便乗する者や政治的意図を持つ者たちが大きく採り上げ、現代に至るまで多くの便乗本や解釈書が刊行されてきた。 これらの原動力としては、当初は暦書が主体であったが、次第に『予言集』の影響が強くなっていった。その『予言集』は、18世紀末までに130種以上の版を重ねるという成功をおさめ、2022年現在では英語、イタリア語、スペイン語、ポルトガル語、ドイツ語、オランダ語、フィンランド語、スウェーデン語、ハンガリー語、セルビア語、ロシア語、アラビア語、ペルシア語、中国語、日本語などの翻訳版を含めて少なくとも累計240種以上の版を確認できる(ここには解釈本の類や、Googleブックスなどのオンライン上で公開された古版本を安易に印刷・製本しただけの文献は含んでいない)。 関連書を出版したことのある版元の所在地に至っては、母国フランスをはじめ、当「大事典」で確認できているだけでも、スイス、イタリア、モナコ、スペイン、ポルトガル、イギリス、アイルランド、ドイツ、オランダ、ベルギー、ギリシア、ノルウェー、スウェーデン、フィンランド、デンマーク、ポーランド、ハンガリー、ルーマニア、セルビア、ラトビア、ロシア、日本、韓国、中国、フィリピン、インド、アゼルバイジャン、イスラエル、トルコ、エジプト、チュニジア、南アフリカ、カナダ、アメリカ、プエルトリコ、メキシコ、ブラジル、アルゼンチン、パラグアイ、チリ、オーストラリア等、地域的な濃淡はあるにせよ、文字通り世界中の国・地域にまたがっている。 定義 冒頭に示した定義に対し、竹本忠雄はこの用語を 「日本では一般に社会現象化のことを云うようであるが、西洋ではノストラダムス予言の強力な特異効力の表れを意味する」(*1)と位置付けているが、妥当なものとは言いがたい。 西洋でそのように位置づけているのはせいぜいヴライク・イオネスクくらいで、その定義を西洋一般に拡大するのは不当であろう。 というのは、ロベール・ブナズラは従来の解釈書の氾濫が、「ノストラダムス現象」(le phénomène nostradamus)を分かりにくくする主因の一つになっていると指摘していた(*2)。これが、彼の記念碑的書誌の前書きに書かれていることを考えれば、彼が解明したいと考えていた 「ノストラダムス現象」 が社会現象を指すのは明らかだろう。 予言の特異効果とやらを解明したいのならば、解釈書を出すべきで、あれほどの大著として書誌をまとめあげる必然性がない。 また、詩百篇集はすべてノストラダムスの死後に偽造されたものという大胆な仮説を打ち出したジャック・アルブロンの書名は、『ノストラダムス現象に関する未発掘の資料群』 であった。詩百篇はすべてノストラダムス死後の偽作だとして、その正統性を認めないアルブロンが、そこに 「強力な特異効力」 など見出すはずがないのは言うまでもないことで、竹本の定義に明らかに反している。 竹本が個人的にどのような定義を行おうと彼の勝手である。 しかし、それをあたかも西洋一般で通用している定義であるかのように吹聴することには、強い疑問を感じる。 時代区分 ノストラダムス現象は、ロベール・ブナズラの区分に準じれば、以下の3つの時代に大別できる(*3)。 敵対者たちの時代 この時代は、ノストラダムスの存命中(1550年代半ばから1560年代初頭まで)にあたる。 ノストラダムスの予言は、大いにもてはやされた一方で、様々な批判が浴びせられた。そうした批判には、論理的な批判も見られた一方で、ノストラダムスを「モンストラダムス」(Monstradamus, モンストル=怪物との合成語)と呼ぶなど、単なる中傷に過ぎないものも少なからず見られた。かつてのノストラダムスの知人ジュール・セザール・スカリジェ(未作成)なども、こうした中傷に関与した。 この時期の批判や中傷の特色としては、コンラッド・バディウス(未作成)、ウィリアム・フルクなどプロテスタントからの批判が多かったこと、および主たる攻撃対象は暦書類であって、『予言集』は余り相手にされていなかったことが挙げられる(*4)。 この時期の主な批判者は以下の通りである。 ローラン・ヴィデル アントワーヌ・クイヤール エルキュール・ル・フランソワ(未作成)(エルキュール・ル・フランセ) ジャン・ド・ラ・ダグニエール(未作成) コンラッド・バディウス(未作成)(コンラッド・バード) ウィリアム・フルク 詐欺師たちの時代 この時代は、ノストラダムスの晩年から17世紀初頭にあたる(この時代の初期は批判者たちの時代と重なる)。この時期には、ノストラダムス2世、アントワーヌ・クレスパン、フィリップ・ノストラダムスといった偽者たちが現れ、弟子を自称する者も複数現れた。また、アンベール・ド・ビイイ(未作成)やコルモペードのように、ノストラダムスの詩篇を盗用した占星術師も複数いた。 彼らはノストラダムスの著書を真似たが、そこで模倣の対象になったのは、主に暦書類の書式であって、『予言集』を真似て詩集を出した者は、ピエール・ド・ラリヴェ(未作成)のような例外を除けば、ほとんどいなかった。他方、ノストラダムスの作品からの盗用は、むしろ『予言集』の詩篇が対象となる場合が多かった。 解釈者たちの時代 この時代は、16世紀末葉から現代にあたる(この時代の初期は模倣者たちの時代と重なる)。ノストラダムスの予言について、最初に体系的な解釈を施したのは、ノストラダムスの秘書であったジャン=エメ・ド・シャヴィニーである(1594年)。 しかし、その後ノストラダムスの注釈者が一気に増えたわけではなく、19世紀までは各世紀数人程度しか注釈者は現れなかった。しかし、ノストラダムス関連書が少なかったわけではなく、ミシェル・ショマラの書誌では、1567年(ノストラダムスの死の翌年)から1800年頃までの関連書として、実に300点以上が挙げられている。 それらの中で『予言集』の版以上に目立ったのは、翌年一年を予言した暦書や、数年程度に対象を限定した散文の予言書であった。前者の例としては『ミシェル・ノストラダムス師によって正確に算定された1674年向けの歴史的暦』(パリ、1674年頃)などが、後者の例としては『1768年から1774年までの7年間のノストラダムスの新奇なる予言』(パリ、1768年頃)などが挙げられる。それらの主たる書き手は匿名のパンフレット作家であるため、内容もノストラダムスとは無関係の偽書にすぎないが、毎年のように出版された。 このように、ノストラダムスの名は、19世紀までマチュー・ランスベール、ピエール・ド・ラリヴェ2世などとともに、「売れるブランド」として暦書や予言書に多く用いられていたのである。その際にしばしば権威付けとして用いられたのが、「ノストラダムスの墓から新たな予言が見つかった」という言説である。 そうした言説は17世紀にはもう見られるが、実際には、フランス革命期に墓荒らしにあったときでさえ、目ぼしい副葬品はなかったようである(伝説には事欠かないが、いずれも裏付けがない)。 ほか、17世紀のフロンドの乱の際に出された一連のマザリナード(未作成)の中には、ノストラダムスに仮託する形で政治的な主張や願望 (例えば「マザランの失脚が予言されている」といった類の言説) を盛り込んだ風刺文書も少なからず出されていた。1648年から1652年までの関連書として、ブナズラの書誌では40点が挙げられている。同様の現象はフランス革命期にも見られた。 ノストラダムスの作品から未来を読み取ろうとする解釈者が爆発的に増えるのは、20世紀の2度の世界大戦を経てのことである。 第二次世界大戦の直前や戦中には、ノストラダムスをめぐって様々なトラブルが起こった。 フランスのヴィシー政権は、ナチスを刺激することを恐れて、マックス・ド・フォンブリュヌ(未作成)やエミール・リュイール(未作成)らのノストラダムス解釈書を発禁処分にした。彼らの著書には、ナチスに否定的な未来予測が載っていたためである(*5)。 また、ナチスは占星術師カール・エルンスト・クラフト(未作成)に命じて、自分たちに都合のよい解釈を載せた著書を執筆させ、これをばら撒いた。 戦後、ノストラダムスに対する関心はある程度落ち着いたが、1980年代になって再燃した。1980年に出版されたジャン=シャルル・ド・フォンブリュヌの著書『歴史家にして予言者ノストラダムス』が国際的な大ベストセラーとなったためである。 フォンブリュヌの著書は、1981年になって、その年のミッテラン政権誕生やヨハネ・パウロ2世狙撃を予言していたとして話題になり、オリジナルのフランス語版だけで100万部を超えた。次いで、様々な言語に訳され、アメリカ、イギリス、ドイツ、スペイン、カナダ、ブラジル、トルコなどでも出版され、余り売れなかったものの日本語訳も出された。 フォンブリュヌの的中例とされたものは、必ずしも実際の事件に一致するものではなかったが(詩百篇第2巻97番参照)、著書の内容が近く起こる第三次世界大戦とそれによるパリ壊滅を描き出すものであったため、多くのフランス人の不安を煽った。 これに対しては、フランス国内で複数の反論書や批判的な書評が寄せられ、ノストラダムス協会も反対の姿勢を明確に打ち出した。 ジャン=ポール・ラロッシュ(未作成)によって作成された、フランスを中心とするノストラダムス関連文献の刊行点数のグラフ(*6)によれば、爆発的に刊行点数が増えたのは、1981年、1986年、1999年、2001年であったという。これらの年にはいずれも刊行点数は50点を超えている(*7)。ただし、フランスの場合、1980年代以降には実証的な立場からの優れた研究も相次いで刊行されたので、関連文献が全て信奉者の解釈書というわけではない。 1999年にはファッションデザイナーのパコ・ラバンヌが、恐怖の大王の正体はロシアの宇宙ステーション「ミール」の墜落であると主張して、フランスでは話題となった。 2001年には、英語圏でもフランス語圏でも、アメリカ同時多発テロ事件に便乗し、ノストラダムスの予言の中からこれを読み取ろうとする言説がインターネット上を駆け巡り(*8)、偽の詩も出回った。また、関連書も急増した。その後、アメリカではノストラダムスの予言絵画が取り沙汰されるなどしている。 こうした欧米のノストラダムスブームは、アラブ社会における終末論の論じられ方にも間接的に影響を及ぼしたとする指摘もある(*9)。 日本への影響 日本のノストラダムス現象を参照のこと。 ※記事へのお問い合わせ等がある場合、最上部のタブの「ツール」>「管理者に連絡」をご活用ください。