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ウィリアム・シェークスピア(William Shakespeare) 世界大百科事典、中野好夫・小津次郎の記述 (1564~1616) イギリスの詩人、劇作家。イングランドの中部ウォーリックシャーの市場町ストラトフォード・オン・エーヴォンに生まれた。4月26日に受洗の記録があるので誕生はその数日前と推定される。8人姉弟の第3子、長男として生まれた。半農半商の豊かな家庭で、父は町の有力者であったが、まもなく没落し、詩人は高等教育をうけなかったであろうと想像されている。1582年に8歳年長の女アン・ハサウェーAnne Hathawayと結婚し、6ヶ月後に長女が生まれ、さらに85年には男女の双生児をもうけたが、その後、故郷をすててロンドンに出た。それは地元の豪族ルーシー家のシカを盗んだことが発覚したためという説もあるが、根拠はない。ロンドンにおける動静についてもまったく不明であるが、92年には先輩の劇作家ロバート・グリーンの著述のなかに、明らかにシェークスピアをあてこすったものと思われる一節があることによって、当時すで新進俳優もしくは作家として名を成していたことがうかがえる。青年時代にロンドンの劇場で観客の馬番をしていたという俗説をそのまま信ずることはできないにしても、劇場関係の雑役から出発して、やがて俳優となり、劇作に手を染めることになったと想像される。彼の属した「内大臣おかかえの一座」Lord Chamberlain s Menは当時の二大劇団の一つであり、同劇団が98年にベン・ジョンソンの『十人十色』を上演したさい、シェークスピアが俳優として登場した記録が残っており、『ハムレット』の亡霊が当り役であったとも伝えられている。現在知られているかぎりでの彼の最も早い作品は1590年ころの執筆と推定されるが、それ以後20年あまりの間に、合作を含めて戯曲37編と詩7編を書いている。その間、収入の増加とともに、96年には父親のために紋章の使用許可を買いとり、翌年には郷里のニュープレースNew Placeに、町で2番目に大きな邸宅を購入し、また劇団の大幹部として、ロンドンのグローブ劇場(地球座)およびブラックフライアーズ劇場The Blackfriarsの株主となるほどの成功をもおさめていた。1611~1612年ころ、まだ50歳にも達せず、創作力もさほど衰えたともみえないのに、とつぜん筆を折るって死んだ(4月23日)。以上がシェークスピアのいちおうの伝記であるが、現存する1片の原稿も、手紙や日記のたぐいもないために、いまだに彼の実在をさえ疑う人もある。最も確実な伝記的資料は、受洗と結婚、土地家屋購入、遺言書などの法律・協会関係の記録だけで、かんじんの詩人、作家としての彼に関するものは作品のほかになにもない。『サー・トマス・モア』という当時の戯曲原稿のいち部分が彼の筆跡であると近年主張されるが、それも間接的な推測を出るものではない。シェークスピアは哲学者フランシス・ベーコンの匿名にすぎないというベーコン説をはじめ、文芸愛好家の貴族オックスフォード伯エドワード・ド・ヴィアEdward de Vere(1550~1604)であるとするもの、同年輩の劇作家で、若くして不慮の死をとげたクリストファー・マーローであろうと考えるものなど、シェークスピア抹殺論はいまもあとを断たないが、もとよりいずれも根拠のよわい推定にすぎない。作品についても、初版の出版年代が明らかであるほかは、創作ならびに初演の正確な年代を知ることは困難であり、学者によってさまざまな憶測がおこなわれている。ことに作品によっては作者自身が一度ならず補筆改訂を加えたものもある。現在までに最も権威があり、かつ穏当であるとされるエドマンド・チェンバーズSir Edmund Kerchever Chambers(1866~1954)の説によれば、推定創作年代はつぎのとおりである。1590~91年『ヘンリー6世』第2~3部。91~92年『ヘンリー6世』第1部。92年『ヴィーナスとアドニス』。92~93年『リチャード3世』『間違いつづき』。93~34年『タイタス・アンドロニカス』『じゃじゃ馬ならし』『ルクリースの陵辱』。93~96年『ソネット集』(大部分)。94~95年『ヴェロナの2紳士』『恋のほねおり損』『ロミオとジュリエット』。95~96年『リチャード2世』『真夏の夜の夢』。96~97年『ジョン王』『ヴェニスの商人』。97~98年『ヘンリー4世』第1~2部。98~99年『から騒ぎ』『ヘンリー5世』。1599~1600年『ジュリアス・シーザー』『お気にめすまま』『十二夜』。1600~1601年『ハムレット』『ウィンザーの陽気な女房たち』。01~02年『トロイラスとクレシダ』。02~03年『末よければすべてよし』。04~05年『尺には尺』『オセロー』。05~06年『リア王』『マクベス』。06~07年『アントニーとクレオパトラ』。07~08年『コリオレーナス』『アゼンスのタイモン』。08~09年『ペリクレス』。09~10年『シンベリン』。10~11年『冬の夜話』。11~12年『あらし(テンペスト)』。12~13年『ヘンリー8世』。 「業績と評価」劇作家シェークスピアの20年にわたる発展については、多少修正の余地はあるが、だいたいエドワード・ダウデンEdward Dowden(1843~1913)の試みた4期説に従うのが便利であろう。「第一期」ca.1591~ca.95(修業時代)確実な証拠はないが、おそらく先行作品の改作者として、先輩劇作家たちの長所を自由に吸収し、将来の大成に役だてた時代とみられる。ちょうどイギリス・ルネサンスの隆盛期にあたり、青年作家シェークスピアの筆にはみずみずしい青春の気があふれている。もとより、先輩作家マーローやトマス・キッドらの模倣のあともまだはっきりと残っており(悲劇『ヘンリー6世』(三部作)、『タイタス・アンドロニカス』、喜劇『恋の骨おり損』『ヴェロナの2紳士』など)、さらにまた習作的作品の域を出なかったが、悲劇『リチャード3世』『ロミオとジュリエット』、喜劇『じゃじゃ馬ならし』『真夏の夜の夢』など、彼のような天才だけがあらわしうる傑作もすでに書きだしている。なおこの時期には、『ヴィーナスとアドニス』『ルクリースの陵辱』の2編の物語詩、および154編よりなる『ソネット集』(1609刊)を書いている。『ソネット集』は豊かな美しさにみちた作品であるが、内容はシェークスピア自身の内面的告白とともうけとられる多くの問題をふくんだ作品である。「第二期」ca.1596~ca.1600この時期に入ると、詩人の目は人間的深さと社会的広さを加え、喜劇では『ヴェニスの商人』『から騒ぎ』『十二夜』『お気にめすまま』、史劇では『リチャード2世』、『ヘンリー4世』(二部作)、『ヘンリー5世』、悲劇では『ジュリアス・シーザー』のような人に親しまれた傑作を書いている。ことに注目すべきことは、『ヘンリー4世』に登場する愛すべき悪党、ふとった老兵のフォールスタフSir John Falstaffの性格想像であろう。このころまでに先輩作家はほとんど世を去り、有力な後輩もまだ台頭せず、ほとんどシェークスピアのひとり舞台であった。「第三期」ca.1606~ca.1608彼の最高傑作が、つぎつぎと現われた時期である。1603年にはエリザベス女王が死に、ジェームズ1世がスコットランドから王位をつぎ、ここにスチュアート朝が始まることとなったが、イギリス・ルネサンスもようやく退廃期に入り、そうした思潮を反映したためか、あるいは別の事情によるものか、シェークスピアの作品も急に暗さを加え、その背後にはつねに懐疑と不信の深いふちが口をひらいているようになった。いわゆる「四大悲劇」である『ハムレット』『オセロー』『マクベス』『リア王』はもとより、『アントニーとクレオパトラ』やローマ史劇『コリオレーナス』にいたるまで、外見と真実のくいちがいを追及しており、シェークスピア単独の作品ではないかもしれないが『アゼンスのタイモン』にいたって、そのシニシズムは頂点に達している。また『尺には尺』『トロイラスとクレシダ』などは、結末こそ喜劇的解決の形をとっているが、素材はむしろ悲劇に近く、作家精神の混迷を感じさせるいわゆる「問題喜劇」である。「第四期」ca.1609以後第三期の憂愁と懐疑から解放され、ふたたび清澄を回復して、ふつう「ロマンス劇」とよばれるもの、すなわち『シンベリン』『冬の夜話』、そして単独作としては最後の作品である『あらし』が書かれた。これらは第三期の悲劇の傑作にくらべて、芸術的価値において劣り、創作力がすでに最盛期をすぎたことを感じさせるものではあるが、彼の詩魂の展開をたどるためにはきわめて重要な作品群である。それについては、前期において経験した暗い情熱のあらしから回復して、ようやく澄んだあきらめの心地に到達したとする説、あるいは人生に対する幻滅がいよいよその深刻さを加えたためとする説、さらに最近には、晩年にいたって詩人が清教徒主義に近づいたと考える説など、学界の注目は最近この時期に向けられてきた感がある。なお彼はこのあと史劇『ヘンリー8世』を書いているが、ジョン・フレッチャーJohn Fletcher(1579~1625)の筆が大いに加わっていることは確実である。彼の作品が世界的古典としての定評を得たのは、19世紀初めに近代ロマン主義が興隆して以来のことである。もとより彼は生前から劇壇の第一人者として評価されてはいたが、比類を断つほど絶対的なものではなかった。17~18世紀においても、少数の目の鋭い日評価を別とすれば、当時の文芸思潮である古典主義は彼の天才に対して冷淡であり、「野蛮な天才」とみるのが一般の考え方であった。それが近代ロマン主義によって時空を絶した天才とあがめられ、イギリスはもとより、いわゆる「シェークスピアのヨーロッパ征服」がおこなわれることになり、ドイツを中心としてほとんど偶像的崇拝をからうるにいたった。その後ロマン的興奮はしずまったが、彼に対する世界的評価はついにふたたび低下することはなかった。このロマン主義批評は、イギリスの詩人批評家コールリジによってみごとな開花を示し、A.C.ブラッドリーの名著『シェークスピアの悲劇』(1904)において完全な結実をみせた。しかしその後、シェークスピア研究はロマン主義的批評に対して反動の傾向を示し、アメリカの学者ストールElmer Edgar Stoll(1874~)や、ドイツの文学者シュッキングLevin Ludwig Schücking(1878~1964)らの主張する歴史的実証主義が勢力を占め、彼をエリザベス朝時代のイギリス人としてみようとする方向にすすんだ。さらにその後になってスパージョンCaroline F.E.Spuregeon(1869~1942)やドイツのクレーメンWolfgang H.Clemen(1909~)による研究は、シェークスピアの研究に新生面をひらき、さらにリチャーズIvor Armstrong Richards(1893~)やエンプソンWilliam Empson(1906~)らの批評態度に刺激されておこったアメリカのニュー・クリティシズムの一派は、戯曲の言葉に鋭いメスをあてることによって作品の意味をさぐりだそうとしている。また一方においては、20世紀初めにポラードAlfred William Pollard(1859~1944)によって先手をつけられた科学的な本文批判は、グレッグSir Walter Wilson Greg(1875~1959)、マッケローRonald Brunlees McKerrow(1872~1940)、ドーヴァー・ウィルソンJohn Dover Wilson(1881~1969)らによって、めざましい発展をとげてきた。シェークスピア研究は上記のほかに今後にまつべきものも多いが、彼の文学のもつ意義はつぎの二点に要約されよう。1.戯曲史的にみて、古代ギリシアの運命悲劇に対して、性格悲劇という一つの型の完成者として不朽意義をもっている。また人工光線を用いない裸の張出舞台という当時の劇場構造を条件として、弱強5脚の無韻詩形blank verseを完成し、英語の達しうるかぎりの最高の詩劇を創造した。2.精神史的にみて、彼の全戯曲はそのままイギリス・ルネサンスの生きた姿であり、その意味で、フォールスタフ、イアゴー、ハムレット以下の性格は、またそのままルネサンス精神の典型的人間群像であるといえる。日本においては、すでに1877年(明治10)に『ヴェニスの商人』が、ラムの『シェークスピア物語』から翻案されて、『胸肉の奇松』と題して『民間雑誌』に掲載されている。また坪内逍遥は188年に『自由太刀余波鋭鋒(じゆうのたちなごりのきれあじ)』と題して『ジュリアス・シーザー』を翻訳したのを皮切りに、1928年(昭和3)までに、少数の短詩をのぞく全作品を独力で翻訳した。上演についていえば、1885年大阪において中村宗十郎一座によって、『ヴェニスの商人』が『何桜彼桜銭世中(さくらどきぜにのよのなか)』という外題で翻案上演されたのを最初に、川上音二郎一座や歌舞伎俳優によって、主として翻案形式によって上演されていたが、1906年に逍遥主宰の文芸協会が設立されると、シェークスピア上演の機運は大いに高まり、逍遥訳による記念すべき上演がしばしばおこなわれた。その後も歌舞伎俳優、築地小劇場などによってとりあげられ、注目すべきものも少なくなかったが、最近にいたって、主として新劇畑の劇団が新しい現代語訳による上演をこころみ、相当数の観客をあつめうるようになったことは、近年におけるシェークスピア映画の成功とともに、この劇作家の民衆への浸透を物語るものであろう。→ヴェニスの商人、オセロー、ジュリアス・シーザー、ハムレット、マクベス、真夏の夜の夢、リア王、ロミオとジュリエット 大日本百科事典、小津次郎の記述 (1564~1616) イギリスの詩人・劇作家。イングランドの中部地方、ウォリックシャーのストラトフォード=オン=エーボンに生まれた。父は皮革加工業を主として、農作物や毛織物の仲買業を営んでいた。母は近在の豪農の出身であった。父は1568年には町長に選出され、シェークスピアは裕福な市民の長男として幸福な幼年時代を送り、町のグラマー=スクール(文法学校)に学んだが、彼が13歳の時に父の没落が始まり、大学へ進むことは許されなかったと思われる。18歳にして8歳年長のアン=ハサウェーと結婚し、6ヶ月後の1583年5月に長女スザンナが誕生、さらに85年2月にはハムネットとジューディスという男女の双生児が生まれた。彼の少年時代についてはまったく記録を欠いており、演劇との結びつきも不明であるが、有力者の子弟として観劇の機会に恵まれていたと思われる。ロンドンに出た事情や年代についても不詳であり、近郊の豪族ルーシー家のシカをいたずら半分に盗んだのが、思いがけない醜聞となったので、郷里を去ったという伝説もあるが、もとより確実な証拠はない。なんらかの理由でロンドンに出たのち劇団に加入したのか、すでに俳優として多少の経歴をもってから劇団とともに上京したのかはわからないが、ロンドンにおける俳優としての生活は80年代の末ごろに始まっていたらしく、92年には新進の演劇人として評判が高かったことを示す資料が残っている。シェークスピアの劇作活動がいつから始まったかは不明確であるが、多くの学者は1590年ごろと推定している。おそらく最初は先輩作家の戯曲に部分的改修を加える助手的作業であったろうが、やがて彼自身の作品と呼びうる戯曲を発表するようになった。その意味で『ヘンリー6世』三部作を彼の処女作と考えることができよう。そのほかに同じく歴史劇の『リチャード3世』を書いたが、歴史劇流行の波にのった新進作家の試みであったろう。またローマの喜劇作家プラウトゥスからの翻案ともいうべき『まちがいの喜劇』や笑劇『じゃじゃ馬ならし』、当時人気の絶頂にあった流血悲劇の線に沿った『タイタス=アンドロニカス』などが初期の作品群を形成している。いずれも習作であり、先輩の模倣や稚拙な部分が残ってはいるが、大作家の萌芽は既に現われている。1592年から足かけ3年にわたってロンドンに流行したペストのため劇場は閉鎖された。シェークスピアはその間に2編の叙事詩『ビーナスとアドーニス』『ルクリース陵辱』をサウサンプトン伯に献呈してその知遇を得た。94年に内大臣の庇護を受けた劇団(ロード=チェンバレンズ=メン)が誕生したが、彼は幹部座員として参加することとなった。劇場閉鎖の結果ともいうべきロンドン劇壇の大規模な再編成はシェークスピアにとって有利な情勢をつくりだしていたといえよう。当時の彼の作品には、叙情性が強く現われており、悲劇『ロメオとジュリエット』、歴史劇『リチャード2世』、喜劇『真夏の夜の夢』はその典型である。このころから1600年ごろまでに彼は主として歴史劇と喜劇を書いたが、『ヘンリー4世』二部作に登場するフォールスタッフなる老騎士は、道徳的には非難に値するが、人間的魅力にあふれており、ハムレットとともにシェークスピアの創造した性格の中でもっとも興味あるものとされている。また『ベニスの商人』『お気に召すまま』『十二夜』はロマンチックな喜劇の傑作であろう。内大臣一座は1599年にテムズ川南岸にグローブ=シアター(地球座)を建設し、シェークスピアにはゆかりの深い劇場となったが、このころから集中的に悲劇を書くようになった。『ジュリアス=シーザー』はその最初であるが、やがて『ハムレット』『オセロ』『リア王』『マクベス』と四大悲劇が相ついで発表されることになる。その素材はそれぞれに異なっているが、いずれも外見と内容、仮象と真実のくい違いに悲劇の世界を見いだし、死との関連において人間的価値の探究を果たそうとしている。1600年ごろからの数年間はシェークスピアの悲劇時代と呼ばれているが、『終わりよければすべてよし』や『尺には尺を』などの喜劇も書かれている。しかしこれらの喜劇には暗い形がさしており、モラルの混迷もみられるところから、問題喜劇という名称を与える批評家もいる。この時期の最後を飾る悲劇は『アントニーとクレオパトラ』であるが、ほぼ同じころに執筆されたと思われる『アセンズのタイモン』には悲劇形式に対する困惑が認められる。1603年に内大臣一座はジェームズ1世の庇護を受けることになり、国王一座と改称した。08年には新しくブラック=フライヤーズ座を購入したが、グローブ=シアターとは異なった様式の劇場で、入場料も高く、比較的裕福な観客層をもっていた。劇壇の新しい経営方針とおそらく無関係ではなかったと思われるが、シェークスピアの作品も1608年から新しい傾向を示すようになった。それはロマンス劇と呼ばれる悲喜劇で、一家の離散に始まり再会と和解に終わる主題の追及であった。『冬の夜話』やシェークスピア最後の刊行作『あらし』はこの系譜に属する。彼は10年ごろにロンドンを去って郷里に帰り、16年4月23日に真だといわれる。誕生日も4月23日前後であったから、満52年の生涯を閉じたことになる。23年には旧友によって戯曲全集が刊行された。通常「ファースト=フォリオ」(二つ折り本初版)と呼ばれている。シェークスピア劇の特色は人間内面の世界を描いた点にあるが、最高の詩的表現に満ちた韻文劇であることも大きな特徴となっている。同じことは英詩最大といわれる『ソネット集』についてもいいうるであろう。日本へは明治初年に紹介され、いくつかの翻案がおこなわれたが、翻訳としては坪内逍遥による『ジュリアス=シーザー』の訳『自由太刀余波鋭鋒(じゆうのたちなごりのきれあじ)』が1884年(明治17)に刊行されたのが最初である。逍遥は1906年に文芸協会を設立し、シェークスピア上演の意欲的活動をおこなったが、協会の解散とともに日本のシェークスピア上演は衰えた。しかし第二次世界大戦後は福田恆存訳による劇壇「雲」の公演活動によって、シェークスピアはふたたび観客大衆に身近な存在となった。また、シェークスピアを学術研究の対象とする「日本シェイクスピア協会」が1961年(昭和36)に誕生、英文の年刊論文集Shakespeare Studiesを発行している。 グランド現代百科事典、小津次郎の記述 (1564~1616) イギリスの詩人・劇作家。イギリスのルネサンスにあたる、エリザベス朝の代表的劇作家であるにとどまらず、世界演劇史を通じて最高の作家と評価されている。シェークスピアの伝記については確実な資料に乏しく、彼の存在を否定する極端な憶測さえ一部には行われているが18世紀以来のシェークスピア研究の成果により、伝記の概要と作品の創作年代をほぼ確実に推測できるようになった。シェークスピアはイングランドの中部ストラトフォード=オン=エーボンに、裕福な商人の長男として生まれた。父はまもなく町長に選ばれ、彼は名士の子弟として町の文法学校に入学したと推測される。文法学校ではラテン語を中心教科としたきびしい詰込み主義の教育が行なわれていたから、後年の読書のために有益であったにちがいない。彼が13歳の時家運の没落にあい、そのため大学への進学は許されなかった。少年時代は家業を手伝っていたという伝説が残されているが、おそらく真相に近いものであろう。1582年に8歳年長のアン=ハサウェーと結婚し、半年後には長女スザンナが生まれ、さらに85年には男女の双生児が誕生し、ハムネット、ジューディスと命名された。それ以後数年間の動静については記録が皆無であるため推測の域を出ないが、一つ興味深い逸話が伝えられている。それによると、青年シェークスピアは近郊の豪族ルーシー家の鹿園からいたずらで鹿を盗んだが、そのことが露見し、ルーシー家との間に激しい応酬のあったあと、郷里にいたたまれずロンドンに出て、劇壇に参加して上京したという推定を下しているが、確実な根拠はない。確実であるのは、1592年にはシェークスピアは劇作家としてロンドンで活躍していたという事実である。これは劇作家ロバート=グリーンの残した文献によって明らかである。おそらく彼は1580年代の後半にロンドンに出て、当時の演劇人の多くがそうであったように、まず俳優として舞台に立ち、やがて劇作家に転じたのであろう。彼は名優ではなかったが、一人前の俳優であったことは記録にも残っている。シェークスピアの処女作が何であったかは確実には断定できないが、『ヘンリー6世』三部作や『リチャード3世』のような歴史劇をもって劇壇にデビューしたと考えられる。歴史劇は当時流行の演劇様式であったから、彼は1590年ごろから、いわば習作としてそのような作品を手がけたのであろう。もとより未熟な作品ではあるが、たとえば『リチャード3世』のように、一般には極悪非道の暴君とのみ考えられていた人物に、ほとんど近代的ともいえる自意識を与えて、これを単なる勧善懲悪劇に終わらせず、主人公の悲劇として完成させたのは、彼の偉大な才能がすでにこのころから自己の世界を発見していたといえるであろう。『間違いの喜劇』や『じゃじゃ馬ならし』もこのころに書かれた喜劇で、笑劇的な要素の強い単純な作品ではあるが、人間性への深い理解において、やはり凡庸な作家の手になったものではない。1592年から94年初頭にかけてロンドンにペストの大流行があり、劇場は閉鎖され、民主向けの演劇活動はほとんど全面的に停止された。この間シェークスピアは2編の叙事詩、すなわち『ビーナスとアドーニス』(1593)と『ルークリース凌辱』(94)をサウサンプトン伯爵にささげ、その個人的庇護を受けることになったが、このころに執筆されたと推定される喜劇『恋の骨折り損』は伯の政敵ウォルター=ローリー卿一派を揶揄したものであり、めったに個人攻撃をすることのなかったシェークスピアとしては異色の作品である。ペストによって多くの劇団は解散に追いこまれていたため、1594年にはロンドン劇壇は大きな変貌をとげ、その結果の一つとして時の内大臣ハンズドン卿をパストロンとする内大臣一座が誕生し、シェークスピアは幹部座員として参加することになったが、これ以後の彼の全生涯はこの劇団にささげられたといってよい。内大臣一座はシェークスピアとほぼ同年の悲劇俳優リチャード=バーベッジを中心とする若い劇団で、シェークスピアはこの劇団のために、喜劇『真夏の夜の夢』、史劇『リチャード2世』、悲劇『ロミオとジュリエット』を書いた。いずれも1595年ごろの作品であるが、高い叙情性に貫かれており、エネルギーに満ちてはいるが、粗削りの感を免れなかった従来のエリザベス朝演劇に、典雅な演劇性を与え、シェークスピア独自の世界をつくり出している。1595年ごろから1600年ごろまでをシェークスピアの喜劇時代と呼ぶ批評家もいるが、確かに彼はこの時期に多くの喜劇を書いている。『ベニスの商人』(1596)、『から騒ぎ』(98)、『お気に召すまま』(99)、『十二夜』(1600)はその代表的作品であろう。これらにロマンチック=コメディという名称が与えられているのは当時の喜劇にありがちな風刺制が希薄であり、ロマンチックな愛と結婚が主題となっているからであろう。しかし、これらの喜劇は単に甘美で華麗な愛の物語ではない。『お気に召すまま』のジェークイーズのようにロマンチックな世界への批評者を登場させることを忘れては居ないし、『ベニスの商人』におけるユダヤ人の高利貸シャイロックのような、一面では非情な悪人でありながら、他面では悲劇的な人物を導入することによって、喜劇の世界を深化している。また1597年に書いた史劇『ヘンリー4世』二部作に登場するフォールスタッフなる人物は、シェークスピアの人間研究を極致を示すものといわれている。この不道徳にしてしかも愛すべき老兵は、ゆるぎない市民感覚の持主で、貴族を中心とした歴史劇の中では笑われる存在あるが、同時にまた貴族の持つ空虚な道義感を嘲笑する役割をもになっている。また、英文学史上最大のソネット集であり、シェークスピアの自伝的要素が含まれているからに見える『ソネット集』(1609刊行)はこの時期に完成されたと推定される。シェークスピアは座付作者として成功を収め、相当の蓄財ができたためか、1596年には父親のために紋章使用権を買い取り、紳士階級(gentleman)と呼ばれる資格を得たが、さらに翌年には郷里のニュー=プレースと呼ばれる大きな邸宅を購入した。内大臣一座も1599年にテムズ川南岸にグローブ座を建設し、ここを本拠としてさらに活発な公演活動を続けることとなった。そして1600年ごろから悲劇を集中的に書くようになった。その先駆けをなすものはローマ史劇『ジュリアス=シーザー』(1599)であるが、次の『ハムレット』(1601)からシェークスピアのいわゆる悲劇時代が始まると考えてよいだろう。半世紀近くも続いて、イギリスにルネサンスの花を開かせたエリザベス1世の治世もようやく終りに近づき、急激な発展をとげたあとの弛緩と社会的矛盾が人人の意識に上るようになり、思想的にも従来の正統に対する懐疑が現われはじめた。『ハムレット』が復讐劇という形をとりながら、主人公ハムレットの精神的遍歴に焦点を合わせた傑作悲劇となっている背景には、そのような時代の影響を認めないわけにはいかない。1603年に女王は世を去り、チューダー王朝は終りを告げ、ジェームズ1世が王位を継承してスチュアート王朝が始まった。内大臣一座は国王の庇護を受けることとなり、国王一座と改称した。シェークスピアは『オセロー』(1604)、『リア王』(05)、『マクベス』(06)の傑作悲劇を次々と発表し、ここに『ハムレット』を含めていわゆる四大悲劇が完成することとなった。ハムレットはデンマーク王子、オセローはベニス公国に仕える黒人将軍、リアは伝説的なイギリス王、マクベスは史上実在のスコットランド王。それぞれに世界を異にし、置かれた境遇もちがっているが、外見と真実のギャップに落ちこみ、全人格的な懊悩と葛藤の後に、生命と引換えに真実を獲得するという悲劇的設定、真実を得えんがために、あえて悪を犯すとさえいえるような逆説的後世は、四大悲劇をはじめシェークスピア悲劇に共通した特色であるということができる。ことに『リア王』においては、正統的な悲劇の限界を越えんばかりにして、不条理演劇に接近しているとさえ評することもできよう。その破綻は次の失敗作『アセンズのタイモン』(1607)に露呈されているが、男女間の愛を当時の演劇に類例を見ないほど冷酷かつ芳醇に描いた悲劇『アントニーとクレオパトラ』(07)をもって、シェークスピアの悲劇時代は終わる。シェークスピア劇は高次元における主題の倫理性と、弾力性に富む無韻詩の駆使による詩的世界の創造によって、エリザベス朝演劇を率いてきたが、このころになって演劇界の様相も変化し、観客の嗜好にも前代との相違が見られるようになってきた。彼がその傾向に同調したか否かは軽々しく断定できないが、1608年ごろからはロマンス物語に取材した悲喜劇を書くようになった。離散した家族の再会、娘による父親の救済が共通した主題であり、その代表作としては『冬物語』(1610)、『テンペスト』(11)があげられるであろう。晩年のシェークスピアは故郷に帰り、妻子とともに数年間の家庭生活ののち、1616年に永眠、郷里のホーリー=トリニティ教会で埋葬された。23年に彼の戯曲全集が刊行されたが、かつての僚友でありライバルであった劇作家ベン=ジョンソンは、その序文でシェークスピアに「彼は一時代のものではなく、万代のものであった」と賛辞を贈っている。 世界文化大百科事典、日高八郎の記述 (1564~1616) イギリスの劇作家・詩人。中部イングランドのストラトフォード=オン=エーボンの生まれ。8人兄弟の第3子で長男。父ジョンは農産物販売や製皮を業とする資産家で、母メアリはカトリックの旧家の出身。少年時代については伝説的なこと以外明らかでない。町の中等学校に学んだと考えられるが、買うんが傾いたためか高等教育は受けなかった。18歳のとき8歳年長の女と結婚、やがてロンドンへ出たが、その日付は不明。27前後から劇作に従事するとともに詩作を始め、1593年に書初の物語詩『ビーナスとアドーニス』を、翌年『ルークリースの陵辱』を出版。1609年には、早くに創作されていた『ソネット集』を出版した。劇作は、喜劇17編、史劇10編、悲劇10編、合計37編(このうち他人との合作と思われるもの10編)を数えるが、創作年代は1590年ごろから1613年ごろまでと推定されている。初期の傑作が『ロミオとジュリエット』『真夏の夜の夢』から二部作『ヘンリー4世』を経て、やがて創作力の頂点を示す四大悲劇『ハムレット』『オセロ』『マクベス』『リア王』の時期にはいるが、壮大さと人間性の深淵への洞察においてギリシア悲劇に比肩しうるとされている。この時期には、暗い影のある作品がにわかにふえ、作者の一身上になにかが起こったとも考えられる。以後、『あらし』などの悟りを開いたような作品数編を残し、47歳で突然筆を折り、故郷に隠退。その作品は、イギリスというわくを越えた世界最大の劇作家・詩人として、後世に深い影響を及ぼした。とりわけその大胆にして骨格の整った作劇術、力強いリアリズムの精神と奔放な想像力、あるいは人間性への鋭く、受容力の広い観察など、時代や国籍を越えて人間を打つものがある。ほかに劇作として『じゃじゃ馬ならし』ベニスの商人』『お気にめすまま』『十二夜』『ジュリアス=シーザー』『アントニーとクレオパトラ』『コリオレーナス』など。 哲学事典、著者不明の記述 (1564~1616) イギリスの劇作家、詩人。イギリスの国家形成を描く史劇において、かれは『リチャード3世』Richard Ⅲ(1592~93)のような個性を創造し、この個人への関心に添い悲劇の主人公を登場させた。『オセロ』Othello(1604~05)は家庭悲劇的様相を帯びるが、『マクベス』Macbeth(1605~06)では、主人公の時の意識や内部秩序のくずれる破局に悪が人間の深層をみせ、『ハムレット』Hamlet(1600~01)の虚偽と真実の対照の中を生きる復讐者の心理葛藤は『リア王』King Lear(1605~06)で普遍化し、二元的因果律の中で破滅に至る人間の本性であばく。晩年『あらし』The Tempest(1611~12)のような調和の世界を示すが、多彩な喜劇も含めルネサンス人らしい豊かな人生の想像的把握を示した。上述以外に、『じゃじゃ馬ならし』The Taming of the Shrew(1593~94)、『夏の夜の夢』A Midsummer Night s Dream(1595~96)、『ヴェニスの商人』The Merchant of Venice(1596~97)、『お気に召すまま』As You Like It(1599~1600)、『十二夜』Twelfth Night(1599~1600)、『ロミオとジュリエット』Romeo and Juliet(1594~95)、『ヘンリー5世』Henry Ⅴ(1598~1599)、『ジュリアス・シーザー』Julius Caesar(1599~1600)、『トロイラスとクレシダ』Troilus and Cressida(1601~02)、『末よければすべてよし』All s Well that Ends Well(1602~03)、『以尺報尺』Measure for Measure(1604~05)、『ソネット集』Sonets(1609)など問題作は多い。 新潮 世界文学小辞典、中野好夫の記述、「シェイクスピア」が項目名 (1564~1616) イギリスの詩人、劇作家。。中部イングランドの市場町ストラットフォード・オン・エイヴォンの生まれ(通常4月23日が記念日になっているが、死んだのがこの日であったことは確実。だが生まれた方は必ずしも23日とは決まらない。ただ生涯洗礼を受けたのが26日とわかっているので、生まれたのはおそらく3日ほど前、23日だろうというにすぎぬ)。父は皮革関係の加工および商業にしたがい、少なくとも詩人の誕生当時までは、家運は相当に順調で、一時は町の名誉職なども勤めていたが、シェイクスピアの少年時代になんらかの理由で急に没落したらしい。そのために、詩人は第3子で長男であったが、いわゆる小学校以上の教育はついに受けなかった。ただし、この小学校は少なくとも古典教育の点などでは相当に程度が高く、したがって古来伝説的にいわれたような、彼を無学者視するのは当たらない。82年、18歳のとき、8歳年長の女と結婚、6ヶ月後には長女が生まれ、次いで翌々年に双生の長男次女をえている。が、ここで確実な資料は急にとだえ、10年後の92年には突然評判高い新進劇作家としてロンドン劇壇に登場している。すべての推測であるが、80年代の中頃に故郷を出てロンドンに上り、前後して劇団に身を投じたらしい。それもs愛書はごく下積み(馬番という伝説もある)から出発、まもなくまず俳優になったことはほぼ確かであり、かたわら先輩作家の脚本に補筆したりしているうちに、自身も制作をするようになったものと思える。そして28歳の92年には、すでに先輩同僚作家の嫉妬を買うほどの新進作家であった。それにしても95年ごろまでの彼は、まだ先輩作家、とりわけマーローなどの作風模倣の跡が著しい習作時代といってもよい。あふれる豊富な才能はすでに現われているが、他方では「他人の羽毛で身を飾る成り上がりものの何でも屋」などという悪評も残っているくらいである。悲劇『ヘンリ6世』『タイタス・アンドロニカス』『リチャード3世』、喜劇『じゃじゃ馬馴らし』『恋の骨折り損』『ヴェロナの二紳士』『間違いの喜劇』などがこの時期の作である。なおこの時期に、彼は2編の物語詩『ヴィーナスとアドーニス』(93)、『ルクリース陵辱』(94)を出版している。これらは作の価値もさることながら、いずれもサウサンプトン伯と呼ぶ若い貴族に献呈されたもので、それによって眷顧を求めることが目的でもあった。貴族のパトロンを持つことは、当時の作家としては重大な感心事であったのである。そして彼は、それにもみごとに成功した。95年を前後して悲劇『ロミオとジュリエット』『リチャード2世』、喜劇『夏の夜の夢』『ヴェニスの商人』、史劇『ヘンリ4世』を出すころから、ようやく円熟期にはいる。そして世紀のほぼ変わり目、悲劇『ジュリアス・シーザー』、喜劇『お気に召すまま』『十二夜』を書くころには、すでに劇詩人としての完成に達し、続いて『ハムレット』『オセロ』『マクベス』『リア王』といういわゆる四大悲劇、続いて『アントニとクレオパトラ』が書き上げられている。1600年代にはいって最初のほぼ8年間である。1603年にはエリザベス女王の死があり、明らかにエリザベス朝栄光の衰退を感じさせる時期でもあるが、この時期の彼の作品には、なんの理由によってか(理由については、いろんな解釈がある)、急に深刻な暗鬱さが影をさし、いわば人間性のおそろしい深淵とでもいうべきものが口を開いているかに見える。四大悲劇がその代表的なものであろう。そして喜劇は、かつての明るさを失い『以尺報尺』『トロイラスとクレシダ』など、あまり喜劇らしからぬ、むしろ苦渋にみちた「問題の喜劇」しか書かれていない。そして最後に11年創作の筆を折るまでのほぼ4年間は、悲劇『コリオレーナス』、伝奇劇(ロマンス)、あるいは悲喜劇と呼ばれる『シンベリン』『冬物語』などの作はあるが、彼の作としては決して上乗のものでない。むしろ『ペリクリーズ』のような痛烈骨を刺す人間嫌悪を吐露した作でさえある。11年の『あらし』でふたたび完成された傑作を書くが、その主人公プロスペロが最後に魔法の杖を折るように、作者自身も筆を折って故郷ストラットフォードへ隠退することになる(13年に『ヘンリ8世』が上演されるが、これは未完に残したものを他の作者が完成して上演させたもの)。20年間にわたり彼ほどつねに劇壇第一人者の人気を保ち続けた作家もいなかったが、世俗的にもまた成功者であった。1597年ごろから幾度かにわたり、故郷に家屋や土地を買い入れているし、ロンドンでは文筆の活動以外に、二つの劇場の株主として相当の収入があったものと考えられる。さらに96年には紳士として紋章の使用を許されている。1611年、47歳で筆を折ったときにも、まだ特に創作力の衰えというものは見られない。にもかかわらず故郷に隠退、どうやら平和な余生を送って、16年4月23日に死んだ。出処進退まことにみごとというほかないが、当時の文人、とりわけ劇作家など、ほとんどが放埒奔放、非命を死をとげるか、みじめな零落の一生に終わるかであった中で、まことにこれはみごとな例外であったからである。しかもこの世俗的成功者が、ひとたびその作品になると、例の『ハムレット』の墓掘りの場面や『リア王』での道化など、痛烈骨を刺す人間批判や冷嘲をほしいままにしているのだから、いよいよ不思議である。さて作家生活20年ほどの間に、彼は戯曲37編と詩を長短7編残した。戯曲のことは別項に書くが、詩では先にあげた物語詩2編のほかに、154曲からなるいわゆる『ソネット集』が特に重要である。大部分は1593~6年頃の若い日に書かれたと見られるが、その後新しく加えられたものもあって、1600年頃には完成したらしい。09年、作者には無断で出版を見た。内容は第126曲を境にほぼ2つの部分にわかれるが、前半はすべて作者自身らしい詩人が、パトロンである美貌独身の青年貴族に寄せる形で、貴族に結婚をすすめたり、一人の女をめぐって作者と貴族との三角関係をなげいたり、また貴族の眷顧が別の若い詩人に移ったことを恨む心などがうたわれている。後半は問題の「黒い女(ダーク・レディ)」をめぐって、その愛と裏切りへの怨言(うらみ)などが主題になっている。豊麗、絢爛、ソネット文学の最高作品であるというだけでなく、この内容がはたして作者自身の自伝的要素を含んでいるか、それとも純粋に客観的仮構であるかについて、年来尽きない学者間の論争がある。なんとも決定的なことはいえないが、近来では自伝説がまた有力になっている。 ☆ハムレットHamlet…1602年初演と推定され、この詩人の代表作になっている。筋は一種の復讐譚である。デンマーク王子ハムレットは、父王を叔父クローディアスに殺され、その弑逆者は彼の生母ガートルードと結婚して王位に即いている。ハムレットは父の亡霊によってその死の秘密を知らされ、復讐の使命を負わされるが、道徳的で内省的な彼はいくどか懐疑の憂悶に悩んで決行をためらう。だが、結局はゴンザーゴ殺しという類似の筋の劇を叔父に見せることによって、弑逆の真実をつきとめ、ついに復讐はとげるが、彼自身も毒刃に仆れて死ぬ。原話は古い中世伝説で、いくどか物語類の材料になっていたが、直接シェイクスピアが粉本としたのは、しばらく前に、今は失われたが『原ハムレット』と呼ばれる作があり、それを彼が徹底的に改作したらしいといわれる。もちろん、前作は粗雑な復讐劇だったのを、ハムレットという近代的性格の主人公にしたばかりでなく、そのほかオフィーリア、ポローニアス父娘などを配して、みごとな心理的悲劇にしたのはシェイクスピアの天才である。改作ということもあって、細かくいえば構成上の矛盾も破綻もあるが、一面、これほど深い哲学的問題も含みながら、しかも大衆的にもこれほど変化に富み、見て面白い芝居もあるまい。ハムレットの性格解釈の問題だけでも、いわば永遠の問題になっている。19世紀以来、ドン・キホーテの行動型と対照されるほど、これはゲーテ、コールリッジ流の内省型、憂鬱型性格とする感傷的解釈が主流を占めてきたが、今世紀にはいってからは、むしろそれが自己克服を通して行動人というか、「強いハムレット」という解釈も有力になっている。それはとにかく解釈を越えた不思議な魅力をもっているというのが、この作品の特色であろう。 ☆オセロOthello…1604年初演と推定される。原話はイタリア小説にある。ヴェニスの将軍であるアフリカ黒人のオセロは、武勇の魅力で元老院議員の娘で子どものようなデズデモーナの愛をえて妻にする。だが、青年将校で旗手であるイアーゴが深く彼に含むところがあり、その復讐に、ありもせぬデズデモーナの不貞を、さも事実であるかのようにオセロに思い込ませる。猛将ではあるが、単純な彼は、みごとにこのイアーゴの狡知の餌食になり、無垢のデズデモーナを疑って嫉妬のあまり寝室で扼殺する。イアーゴの姦計も露われるが、時すでにおそく、オセロも悔恨のうちに自殺して果てる。一言でいえばマキアヴェリズムのいわゆる狐と獅子の悲劇、強いが単純な獅子のオセロが完全に狐イアーゴの狡知に陥れられる悲劇である。構成はきわめて単純明快で、エリザベス朝演劇の伝統からいえば「家庭悲劇」に属するものだが、イアーゴという芸術的といってもいいほどの悪の天才、おそるべき冷徹、精緻な悪役の性格像をみごとに創造したところに、この悲劇の核心がある。デズデモーナの可憐、純情さもさることながら、この作の圧巻はなんといってもイアーゴの活躍にある。 ☆マクベスMacbeth…推定初演は1606年。上代スコットランド史から取材された史悲劇。スコットランドの武将マクベスは、かねて潜在的には王位を望む野心をいだいていたが、たまたま荒野で会った三人の魔女たちの奇怪な予言に動かされ、さらに無良心ともいえるほど激しい意志的なマクベス夫人の教唆もあって、ついに野心を実行に移す。まず王ダンカンを己れの居城に迎えて弑逆の上、王位を僭すると、こんどはひとたびえたものを失うことの不安から、同僚の将軍バンコーをまず暗殺し、さらに血に狂った凶手は次々と犠牲を求めて罪を重ねていく。だが、復讐の幽鬼は、まずバンコーの亡霊となって現われるし、いまは流血の悪鬼と化したマクベスも、ついに故ダンカン王の遺児マルコムの討伐軍の手に仆されて死ぬ。罪と良心との問題を主題にした点で、ドストエフスキーの『罪と罰』にしばしば比較される近代的心理悲劇の興味もあるが、わけても興味深いのはマクベスとマクベス夫人との性格的対照であろう。初めマクベスは野心の誘惑に大きく動かされながらも、なお罪の前には良心的ためらいを禁じえない弱さをもった人間として描かれている。それに対してマクベス夫人は、人間的弱さなどまったく知らぬかに見える強い女に見える。しかも劇の後半では、その弱かったマクベスが絶望的勇気とはいえ、鋼鉄のような不退転の強さを見せて、最後は一種の悲壮美さえ示して倒れるのに対して、あの冷血といえるほどの強さに見えたマクベス夫人は、たちまち日夜罪の幻影にさいなまれて、もろくも乱心の夢遊病者になり、夫に先立って自殺して果てる。このそれぞれの性格の展開という点に最も大きな興味がある。超自然的要素を大きく取り入れたり、激しい流血の場面が相次ぐなど、メロドラマの一歩手前まで行きながら、罪とその報いという最高の悲劇的感情にまで高めている点、驚くべきものがある。シェイクスピア悲劇の中でも、劇的展開が最も急激で、したがって極度に緊迫した名場面を最も多くもっている。 ☆リア王King Lear…推定初演1606年。原話は上代ブリテン稗史に出る。劇は、「忘恩」を主題として並行する主副の筋をめぐって展開する。老王リアは、真実率直な末娘コーディリアを信ぜず、かえって不実な長女、次女の甘言を軽信して国を護ったため、たちまち忘恩の娘たちに追い出され、裏切られたリアは、狂乱の姿で世を呪いながら、あらしの荒野をさまよう。フランス王に嫁していたコーディリアが、王とともに軍を率いて救いにくるが、逆に敗れて、コーディリアは捕虜になり、絞殺され、リアは悲しみの極悶死をとげる。というのが主筋。副筋は、これも誠実の嫡子エドガーをうとんじて、不実の庶子エドマンドの甘言に乗ったために没落をとげる老グロスター伯の悲劇を描いている。四大悲劇の中でも規模の壮大さ、悲劇感情の高揚という点では、最も精彩を放っている。とりわけ有名なのは、前述もしたあらしの荒野、リア王狂乱の場面であり、さらにこの苦悩のりあに不朽の道化を配して、まれに見る悲劇的効果をあげているところは、この作者の劇的天才が最もみごとに発揮されたものであろう。古代ギリシア劇のあるものだけがよく比肩しうる最高水準の悲劇であろう。ただあまりにも通常写実劇の約束をはみ出しているために、かえって「上演不可能」というラムのような最高賛辞もあれば、トルストイのそれのように、最もひどい酷評も出る。不思議な作品である。 ☆ヘンリ4世Henry the Fourth…二部からなる。初演は1597~8年ごろと推定。二部十幕を通じて一個の史劇と見るべきであり、主筋は一応15世紀初頭ヘンリ4世治下の内乱、そしてヘンリ4世の死からヘンリ5世の即位までを扱っているが、この劇の興味は、なんといっても傍筋に登場するサー・ジョン・フォールスタッフの性格像にある。この飲んだくれ、うそつき、臆病、好色という大兵肥満の老騎士は、追い剥ぎ辻強盗は働くし、戦場では死んだまねをして生命を助かる。募兵をやらせれば賄賂をとってふところを肥やす。既成の道徳律から見れば、あらゆる悪徳ぞろい、唾棄しても足りない人物だが、300年来これほど観客から愛されてきた人物はない。ルネサンスの人間解放が生んだこの不思議な性格像を創造しただけでも、この史劇一編は不朽の意味をもつ。他には直情径行の青年武将ホッパー、また王者の理想像として皇太子ヘンリ、のちヘンリ5世を描き出していることも注意すべきであろう。 万有百科大事典 1 文学、小津次郎の記述 (1564~1616) 大日本百科事典とほぼ同文のため除外 「ロメオとジュリエット」Romeo and Juliet…五幕悲劇。創作年代には若干の問題はあるが、1595年ごろとするのが定説となっている。ベローナのモンタギュー家とキャピュレット家は、昔から犬猿の仲にある名家であるが、薄情な恋人を追ってキャピュレット家の舞踏会に出かけたモンタギュー家のロメオは、思いがけなくもキャピュレットの娘ジュリエットを激しく恋してしまう。2人は、ローレンス神父の計らいで秘密のうちに結婚式をあげたが、両家の親族の間に刃傷沙汰が起こり、親友マーキューシオーを殺されたロメオは復讐のため敵方ティボルトを討ち、追放の刑に処せられる。2人は最初にして最後の一夜を過ごしたのち、ロメオはマンチュアへのがれる。父からバリス伯爵との結婚を命じられたジュリエットは神父からもらった薬を飲んで仮死状態におちいり、納骨堂に入れられる。彼女が死んだという誤報を受けたロメオは納骨堂にかけつけ、毒を仰いで死ぬ。目ざめた彼女は事の真相を察し、短剣で胸を突いて彼のあとを追う。この悲劇は当時としては珍しい純粋な恋愛悲劇であり、「星のめぐり合わせの悪い恋人たち」という言葉が用いられているように、シェークスピア劇の中ではもっとも強く運命悲劇の性格をもっているが、同時にイタリアを舞台とした華麗な悲劇として、青年劇作家シェークスピアの代表作となっている。 「真夏の夜の夢」A midsummer Night s Dream…五幕喜劇。1594~1595年ごろの作と推定されている。作者がこの筋書をどこから借りてきたかはわからない。シーシュース公爵とヒポリタの結婚式が間近いアテネで、若い女性ハーミアは父の命ずるディミートリアスとの結婚をきらって、ライサンダーを愛しているが、アテネの法律は父の命にそむくことを禁じているので、ライサンダーとハーミアは郊外の森にのがれるが、ディミートリアスはその跡を追い、以前ディミートリアスの恋人であったヘレナも森にはいる。しかしここには大ぜいの妖精が住み、オベロン王とティテニア王妃は人間のように夫婦喧嘩をしている。またこの森には公爵の結婚式を祝う余興の素人芝居を計画している村の職人たちも集まっている。そのなかを恋の秘薬を持った妖精パックが走りまわり、さまざまな滑稽が演じられるが、結局ライサンダーとハーミア、ディミートリアスとヘレナが結ばれ、公爵とともに結婚式をあげ、村人たちの滑稽きわまる悲劇が上演されて、万事めでたく終わる。アテネの貴族と職人と妖精という三つの世界が森の中で相会し、不即不離の関係を保ちながらロマンチックな夢幻的な世界が展開されていく。おそらく貴族の結婚祝賀用に書かれた戯曲であろうが、青年期のシェークスピアを代表する愛の喜劇である。 「ベニスの商人」The Merchant of Venice…五幕喜劇。1596年ごろの作。イタリアの物語から取材したもので、ベニスの商人アントニオは、親友バサーニオからベルモントに住むポーシャ姫に求婚するための旅費の調達を依頼され、持ち船を担保にユダヤ人の高利貸しシャイロックから借金をし、返済不能の場合は自分の肉1ポンドを提供する証文を与える。ポーシャは求婚者たちに金、銀、鉛の三つの箱を示し、自分の肖像のはいったものを選ばせるが、バサーニオは鉛の箱を取って求婚に成功する。しかしアントニオは船が帰港しないので生命を奪われかけるが、男装したポーシャがベニス法廷の裁判官となり、肉は与えるが血を流してはならぬと宣言するので、シャイロックは敗訴となり、財産を没収され、キリスト教への改宗を命じられる。やがてアントニオの船は帰港し、シャイロックの純真な娘ジェシカも恋人ロレンゾと結婚する。ロマンチックな筋立てをもち、甘美な場面に富んだ喜劇であるが、当時のロンドン市民がもっていた金融業者に対する憎悪や半ユダヤ感情も背景をなしている。しかしシャイロックは単なる悪党ではなく、むしろ悲劇的人物として描かれている点は注目される。 「ハムレット」Hamlet…五幕悲劇。1601年ごろの作。ハムレット王子の原話は12世紀のデンマークの歴史家サクソ・グラマティカスの『デンマーク史』(1514)に見えており、すでに1589年にはロンドンでハムレット劇が上演されていた。その作者はキッドと推定され、作品は「原ハムレット」と呼びならわされているが残存しない。シェークスピアはこれにもとづいて新しい戯曲を書いたものと創造される。デンマークのハムレット王が急逝したので、王妃ガートルードはまもなく王の弟クローディアスと再婚し、クローディアスが王となる。ハムレット王子は早すぎた母の再婚を嘆くが、やがて先王の亡霊が現われ、弟によって毒殺されたことを王子に告げる。ハムレットは復讐のために狂気を装い、最愛の宰相ポローニアスの娘オフィーリアまで失うことになる。知識人のハムレットは亡霊の素性を疑い、王の本心を探るため国王殺しの芝居を見せるが、王は顔色を変えて立ち上がる。その後ハムレットは王とまちがえてポローニアスを殺し、オフィーリアは狂死する。王はハムレットをイギリスに送って殺させようとするが、王子は途中から帰国する。ポローニアスの息子レアーティーズは王とはかってハムレットを毒を塗った剣で殺そうとし、2人は王と王妃の面前でフェンシングの試合をおこなうことになるが、全員毒のため殺され、ハムレットも王を殺したのち絶命し、王位はノルウェー王子に譲られることになる。当時流行の復讐悲劇の形をとりながら、父の仇を討って国家秩序の回復を図らねばならぬ知識人ハムレット王子の苦悩を主題とした悲劇で、つづく『オセロ』『リア王』『マクベス』と並んでシェークスピア四大悲劇の一つに数えられる。 「オセロ』Othello…五幕悲劇。1604年ごろの作で、イタリアの小説から取材したもので、正式の題名は『ベニスのムーア人オセロの悲劇』。ベニス公国の元老ブラバンショーの娘デズデモーナは、黒人将軍オセロと恋愛し、父の反対を押し切って結婚する。折からトルコ艦隊がキプロス島に向かうとの報がはいり、オセロは同島守備のため妻をともなってキプロスに出発する。オセロの旗手イアーゴは望んでいた副官の地位をキャシオに奪われたのを根にもち、2人に復讐を計画する。キプロス到着の夜、イアーゴは酒乱のキャシオにわざと酒を飲ませて騒動を引き起こさせ、オセロから副官の地位を罷免されるや、今度はデズデモーナを通じて復職運動をするようにすすめる。そうしておいてオセロには、キャシオとデズデモーナが密通しているとほのめかし、オセロが彼女に与えたたいせつなハンカチを、妻のエミーリアに命じて盗ませ、キャシオの部屋に落としておいて、偽りの証拠をつくる。軽率にも彼を信じたオセロはデズデモーナを寝台の上で押し殺すが、すべては露見し、オセロは悲しみのあまり自害をとげ、イアーゴはもっと残酷な処刑を受ける子とになる。『オセロ』は四大悲劇の一つに数えられるが、他の悲劇とくらべて写実的な家庭悲劇の色彩が濃い。人間の愛と嫉妬を描いて鮮烈であり、コールリッジが「無動機の悪」と呼んだイアーゴの悪の追求はすさまじい迫力をもっている。 「リア王」King Lear…五幕悲劇。1605年の作と推定される。リアはイギリスの伝説的国王で、16世紀の文学にもときどき言及されているが、シェークスピアの扱い方は独自である。リア王にはゴネリル、リーガン、コーデリアの三女があり、老体のため彼女たちに国土を分割しようとするが、2人の姉が心にもない追従をいうのを聞いて、誠実なコーデリアは腹を立て、わざとすげない応答をするので、父王から追放されてしまう。リアは2人の娘の屋敷に交互に滞留することにしたが、どちらからもたえがたい冷遇を受けるので、宮廷付きの道化師と忠臣ケントの2人だけをつれて暴風の荒野をさまよい、娘の忘恩をののしって狂乱するが、やがて王もまた一介の人間にすぎず、人間は裸の動物にほかならないことを悟る。フランス王妃となったコーデリアは父王の窮状を聞き、父を救うため軍をイギリスに進めるが、最後には敗れ、リアとともに捕虜となり、兵士の手にかかって絞め殺される。リアは彼女の死体を抱えながら悲しみのため絶命する。以上が主筋であるが、グロスター伯父子のこれに似た副筋がからんでいる。シェークスピアやこの時代の多くの悲劇とちがって、この劇には神の正義が十分に実現されていない。行為と結果との間にギャプがみられるので、シェークスピア悲劇の中ではもっとも実存的であるとの評、現代の不条理劇に似ているという意見もあるが、世界演劇史を通じてもっともすぐれた悲劇の一つといわれている。 「マクベス」Macbeth…五幕悲劇。創作年代については異説があるが、少なくとも現在の形をとったのは1606年のことである。歴史家ホリンシェッドの『スコットランド年代記』(1587)から取材したもの。スコットランドの武将マクベスは魔女の予言に心を動かされ、男まさりの夫人の扇動を受けて自分の居城を訪れてきた国王ダンカンを殺して王位につき、さらにその子孫が王者となる予言されている友人バンコー父子の暗殺をはかるが、息子は逃亡してしまう。マクベスの暴政をのろう声は全国に広がり、反乱が怒る。彼はふたたび魔女の予言を求め、バーナムの森が動いたり、女の腹から生まれない男が出現するまでは敗れることのないとの自信を得る。しかしダンカン王の遺児マルカムをいただきマクダフに率いられた軍隊は、森の枝をかざして姿を隠しながらマクベスの城に進軍する。夫人狂死の報に暗澹たるマクベスは、最後の勇気をふるい起こそうとするが、マクベスは母親の腹を切りひらいて生まれたと聞いて、絶望的な一騎打ちに敗死する。シェークスピア悲劇の中でももっとも短く、進行のテンポも速いが、マクベスが国王殺害の直後に自分の安眠を殺してしまったことを悟り、手に付着した王の血は大海の水を使い尽くしても洗い落とせないと罪の償えないことを意識しながら、その意識との必死の果糖を重ねてゆくところにこの悲劇の本質がある。 「ソネット集」The Sonets…詩集。一部は1599年に公刊されているが、全編が刊行されたのは1609年。154編のソネットよりなる。最後の2編は全体の構成からはずれており、作者についても疑問がある。詩人が敬愛する青年貴族を賛美し、早く結婚してその美質を子孫に伝えるようすすめるのが全編の骨子であるが、その中に青年貴族が詩人のライバル詩人に寵愛を移したことの嘆きや、詩人の愛する「黒婦人」を貴族が奪ったことに対する憤りや嫉妬が含まれており、シェークスピアの自叙伝を読み取ろうとする批評家は多いが、具体的にはまったく不明である。1609年版が捧げられているW.Hなる人物についても諸説があって一致しない。創作年代についても異説が多く、シェークスピア全作品の中で最も多くの謎につつまれた興味ある作品であるが、ソネット形式としては「イギリス形式」を用い、イギリス文学にあらわれた最高のソネット集を作り上げている。 万有百科大事典 3 音楽・演劇、富原芳彰の記述 (1564~1616) イギリスの劇作家。1564年にウォーリック州ストラトフォード・オン・エーボンに生まれ、4月26日にその町の教会で洗礼を受けた記録がある。父ジョンはこの町で皮革羊毛業を営み、一時は町長を勤めたこともあるが、その後家運の傾きにあったようである。シェークスピアは土地の文法学校で学んだと推測されるが、彼の少年時代について正確に知ることはできない。19歳になる前に8歳年上のアン・ハサウェーと結婚し、1男2女をもうけたことは記録によって知られる。その後彼は単身ロンドンへ出て劇場の人となったが、それがいつからであり、どのようないきさつを経た跡であったかなどのことについては、伝説や憶測はあるが、確実なことは何も知られていない。1592年9月に出版されたロバート・グリーンの遺著の中に、新進劇作家シェークスピアの人気をうらやんで彼に中傷を加えていると見られる箇所があり、それがシェークスピアのロンドン劇界への登場を最初に伝える文献とされている。92年6月から約2年間、ロンドンの劇場は悪疫流行などのため閉鎖され、俳優たちも離散したが、94年の6月に劇場の閉鎖は解かれ、劇壇の再編成も行われた。そのとき再編成された宮内卿劇団と海軍卿劇団とが以後エリザベス朝、ジェームズ1世朝を通じて最も有力な劇団となるが、このときシェークスピアは宮内卿劇団(1603年以後は国王劇団となる)に幹部の一員として加わり、その劇団の座付作者のようなものになった。そのころまでに彼はすでに『ヘンリー6世』三部と『リチャード3世』(併せて「ばら戦争史劇四部作」とも見られる)、喜劇『まちがいの喜劇』と『じゃじゃ馬馴らし』、残酷悲劇『タイタス・アンドロニカス』などを書いていたと推測される。これらの作品を上演した劇団は一定してないが、シェークスピアが宮内卿劇団の人となってからの彼の作品はもっぱらその劇団によって初演されるものとなった。1592年から94年にかけて劇場が閉鎖されていた間に、シェークスピアは古典に取材する2編の物語詩『ビーナスとアドーニス』と『ルクリース陵辱』とを書き、それらをサウサンプトン伯ヘンリー・ロッツリーに献じた。この若い貴公子とシェークスピアとの間に親密な情誼が生じ、シェークスピアの『ソネット集』(154編を含む)にはそれが強く反映していると見る人が多い。シェークスピアの戯曲は通常37編あるとされているが、それらのおのおのの執筆年代はそれぞれの内外に見いだされる種々の証拠によって推定するほかはない。今日ではE.K.チェイムバーズによって示された推定が最も権威あるものとされており、本稿もそれに従っている。シェークスピアが宮内卿劇団の座付作者になったあとの最初の三年ほどの間に彼は『ベローナの2紳士』『恋の骨折り損』『ロメオとジュリエット』『真夏の夜の夢』『リチャード2世』『ジョン王』『ベニスの商人』などを書いたと推定される。これらの諸作の中の唯一の悲劇『ロメオとジュリエット』は互いに敵対する家に生まれた若い男女の宿命的悲恋を高い抒情性をもって描いた不朽の名作をなし、『ベニスの商人』ではユダヤ人高利貸しシャイロックに特にすぐれた性格創造が見られる。宮内卿劇団は当時のロンドン市を北に出はずれた「劇場」(ザ・シアター)を本拠にしていたが、1598年の暮れにその「劇場」を取りこわし、その材木をテムズ川の南岸に運んで、そこに彼らの新劇場を建てた。それは1599年7月ごろ完成し、グローブ・シアター(地球座)と名づけられた。そのころまでにシェークスピアは『ヘンリー4世』二部、『ヘンリー5世』を書き、『リチャード2世』に続けてここにもう一つの英国史劇四部作と見られるものを完成し、ほかに『から騒ぎ』『お気に召すまま』『十二夜』などの喜劇、および古代ローマ史に取材する『ジュリアス・シーザー』を書いた。『ヘンリー4世』に登場して活躍する巨漢の騎士フォールスタッフはシェークスピアが創造した最大の喜劇的人物である。『ウィンザーの陽気な女房たち』は恋に落ちたフォールスタッフを見たいという女王エリザベス1世の要望に応えて書かれたとの説もある。シェークスピアの創作活動の前半においては史劇と喜劇の作品が多かったが、世紀の変わり目を境として彼はいわゆる悲劇時代に入り、悲劇の傑作を次々に生んだ。通常彼の四大悲劇と称せられる『ハムレット』『オセロ』『リア王』『マクベス』はすべて17世紀初頭の5、6年間に集中して書かれ、それらとほぼ時を同じくして書かれた『トロイラスとクレシダ』『終わりよければすべてよし』『尺には尺を』なども、名目的には喜劇と呼ばれているが、それらの基調は人生の苦渋に満ちて暗澹としており、喜劇の常識に反する「暗い喜劇」をなしている。それらは「問題劇」と呼ばれることもある。『ハムレット』は当時流行した復讐悲劇の一作品とも見られるが、むしろ人間の罪性を過度に意識した人間の悲劇として見られたとき一層普遍的な意味と魅力を帯びる。『オセロ』は、要約すれば「異邦人」の悲劇であり、『マクベス』は幻想に欺かれた人間の悲劇である。悲劇は一般に人間存在の悲惨と栄光とを同時的に感覚させるものであるが、シェークスピアは『リア王』において彼の悲劇的ビジョンを最も壮大かつ深遠に描き出したと思われる。四大悲劇に続いて『アントニーとクレオパトラ』『コリオレーナス』(これらはローマ史劇とも見られる)、『アセンズのタイモン』などの悲劇が書かれた。シェークスピアの悲劇時代は1607、8年で終わり、それ以後彼は作風の上で新たな変化を示し、『ペリクリーズ』『シンベリン』『冬の夜話』『あらし』などを書いた。これらの作品は彼の最晩年の作品群を形成し、それらは彼の「ロマンス劇」と呼ばれることもある。それらに共通に見られる特徴は、人生一切を奇跡と見る感覚と世界に対する和解的態度とであろう。『あらし』はシェークスピアが全部書いた最後の作品とされ、1611年ごろ書かれたとされている。『あらし』を書き終えたころから彼は故郷の町ストラトフォードに隠退したと考えられ、史劇『ヘンリー8世』には彼の筆は一部にしか見られないとされている。『ヘンリー8世』は今日でも通常彼の全集の中に入れられているが、それ以外にも部分的にシェークスピアの筆が見られるのではないかとされた作品はかなりある。特に大英博物館にその原稿が保管されている『サー・トマス・モア』という劇にはその一部にシェークスピアの肉筆の跡が残されているとの説もある。彼は1616年4月23日に没し、ストラトフォードの教会の祭壇間近の床下に埋葬された。明治18年(1885)5月に大阪戎座(えびすざ)で宇田川文海による『ベニスの商人』の翻案『何桜彼桜銭世中(さくらどきぜにのよのなか)』が中村宗十郎一座によって上演されたのがわが国でシェークスピア劇が上演された最初とされる。その次は明治34年7月東京の明治座における伊井蓉峰一座による坪内逍遥訳『該撤奇談(しいざるきだん)』の上演である。そのころからシェークスピアは第二次大戦中を除いてほとんど毎年のようにわが国の舞台にかけられてきた。初めは翻案や一部上演が多かったが、昭和に入ってからは忠実な翻訳に基づく完全上演が普通のこととなった。
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William Shakespeare =シェイクスピア、シェイクスピヤ、シェークスピヤ 自作 『十三夜』を書いた明治の作家は樋口一葉。 では喜劇『十二夜』を書いたイギリスの劇作家は誰でしょう? (2008年3月27日「 某所で出題した問題のメモ 」) タグ:作家 学問・その他 Quizwiki 索引 さ~と オセロ セルバンテス 画像参照:http //www.nta.co.jp/ryoko/tourcon/2005/050105/index.htm
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さいごのことば【登録タグ さ 初音ミク 曲 磯P】 作詞:磯P 作曲:磯P 編曲:磯P 唄:初音ミク 歌詞 最後の言葉は空気も揺らさず 心だけ震わす 別れには白すぎる太陽の下 切れた雲のように絆は傷へと 場違いな蝉時雨 耳の遠くへ 二人の間だけ音が消えてゆく スローモーションで 何かが弾けた 最後の言葉は空気も揺らさず 心だけ震わす 今はまだ落ちる理由も知らない 幼い涙の粒が 胸の奥目を覚ます 青春は言うほど爽やかじゃないね 握る掌の汗もベトつく お互いを知ってそれでもダメだった いっそ時の流れに身を委ねよう 仰向けに浮いて もう逆らわない 何度も頷く 言い聞かせるように 唇をかみしめ 陽炎の向こうにぼやける背中も 隣で笑った日々も どれも嘘じゃない 静かな水面に映る姿一人 歪ませる波紋広がる 最後の言葉は空気も揺らさず 心だけ震わす 今はもう落ちる場所を見つけた 儚い涙の粒が 胸の奥滲み出す コメント この曲が埋もれているという事実が信じられない。優しくて切ないミクの低音が最高。 -- 名無しさん (2009-10-12 16 53 46) 大好き!めっちゃ良い歌なのに・・・!みんな聴いて~ -- NA狂 (2011-01-07 21 59 45) 磯Pの曲は埋もれてるのが多すぎるな -- 名無しさん (2012-01-04 23 08 05) 名前 コメント
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FS/S36-070 カード名:最後の言葉 カテゴリ:クライマックス 色:赤 トリガー:扉 【永】あなたのキャラすべてに、パワーを+1000し、ソウルを+1。 (扉:このカードがトリガーした時、あなたは自分の控え室のキャラを1枚選び、手札に戻してよい) 大丈夫だよ遠坂、 俺もこれから頑張っていくから レアリティ:CR illust. 15/11/23 今日のカード ・対応キャラ カード名 レベル/コスト スペック 色 “主と従者”凛&アーチャー 3/2 10000/2/1 赤
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最近、祖母の死に目を看取った。 もう随分年をとっていたのだが、これがまた漫画に出てくるようなひどい意地悪婆さんで、 突然勝手に家に住むと言い出し、特に父とは仲が悪く毎日言い争っていたみたいだ。 俺は早くに実家を出て東京で暮らしていたので、あまり詳しい事は知らないのだが。 これだけ執念深い性格ならさぞ長生きするだろうと父はぼやいていたが、 突然容態が悪くなり、長い期間入院する事になった。 祖母が入院した病院は、実家から遠く離れた場所にある有名な病院だったのだが、医者も手の打ち様が無く、 親戚を集めて話し合った結果、安楽死させてあげようという結論に至った。 最後の日、病室のベッドに力無く横たわる祖母の姿からは、 意地悪な事ばかりしていたかつての元気は欠片も無かった。 祖母が息を引き取る寸前、何か言おうとしたので、父が顔を近づけて、最後の言葉を聞こうとした。 声はほとんど出ていなかったが、微かに聞こえた音と口の動きから、 「秀一、遠いとこ来てくれて……行って……さようなら」 と言ってたのだろうと父は言っていた。(秀一は父の名前) 『行って』と言ったのは、一番嫌っていた父に、自分の死ぬとこなど見られたくなかったのだろう。 しかし、そんな一番嫌っていた父を最後に労い、ほんとは心の清らかな人だったんだと親戚はみんな泣いていた。 【解説↓】 秀一、遠いとこ来てくれて 行って さようなら ↓ しゅういち とおい とこ きて くれて いって さようなら ↓ うういい おおい おお いえ うええ いっえ あおうああ↓ くるしい のろい ころ して つれて いって やろうかな↓ 苦しい 呪い殺して連れて 行って やろうかな
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目次 1.神理の光は「対話形式」と「言葉の美しさ」を通して輝く 2.すべての光の天使に与えられた「詩」という武器、方法論 3.「死」という悲劇の奥に霊的世界の存在を教えた 4.人生の悲劇は 運命の嵐 のなかに漂っている一枚の木の葉 5.悲劇は人生の真実を見つめさせ、魂を光らせる 6.「相対的運命観」と「絶対的運命観」との綾糸 7.光一元の思想だけでは、片眼だけでは人生の奥行きはわからない 8.文学を通して幾転生に当る無数の人生を知れ (1988年1月2日の霊示) 1.神理の光は「対話形式」と「言葉の美しさ」を通して輝く シェークスピア シェークスピアです。 ―― シェークスピア先生でございますか。すでにご承知かと思いますけれども、私共は今回いろんな霊言集を作成しておりますけれども、芸術の関係に携(たずさ)わっておられた高級諸霊の方のご霊言を賜って、そして芸術編というものを編集したいと、このように思っていますのですけれども、先生からも特に何かご指導賜えることがあったら、お願いいたしたいと思います。 シェークスピア わかりました。それでは芸術全般のあり方、文学のあり方、こうした芸術論、文学論、こうしたもののなかに神理というものを見てゆきたいと、こういうふうに思います。ただこれは私独自の観点でありますし、決して普遍的な考え方でもないと思います。ただこのなかにも、神理の種はあると思います。 まあ『マクベス』であるとか、『リア王』であるとか、そうしたさまざまな戯曲を私は書きました。戯曲という形で、いろんな物語を書いたわけですが、まずこの辺から入っていきたいと思います。 戯曲という形式、なぜこの形式を通して私は訴えんとしたか、ということですが、古来より、意外に人類の根源的思想というものは、戯曲の形式で残されていることが多いのです。あるいは対話篇と言ってもよいし、ソクラテスと弟子たちの対話、あるいは孔子と弟子たちの対話、この辺がたとえば、プラトンの編集するソクラテスの一連のシリーズになったり、あるいは孔子の『論語』であるとか、そうした教えになっていった。こういうことが言えると思います。また仏教においても、釈迦と、その弟子との対話篇が仏典になっていった。ま、こういうことが言えると思います。 したがって、対話篇というのは意外に普遍的な姿なのです。みなさんは、ともすれば理論的な、まとまったものが良いというふうに考えがちでありますが、そうではないのであって、普遍的なるものというのは、やはりひとつには、わかりやすくなくてはいけない。わかりやすいというのは、こうした対話篇で話をするということ、これは人類の胸の奥底に、心の奥底に残るような、そうした普遍性があるのです。易しさがあるのです。 ですから、あなた方も、これから神理をさまざまに語っていかれるのでしょうが、その中において、容易さ、易しさ、そうしたものが流れていなければいけない。わかるようなものでなければいけない。少なくとも対話篇で語られるもので、難解なるものというのは創りにくいのです。聞いてもわからない、読んでもわからないというものは、対話篇では不可能に近いのです。その意味において、対話篇という形式は非常に重要な一形式であるし、古来より用いられたものである。ま、これが言えると思います。 もうひとつ言えることは、結局、美しさですね、文学の形式の中における美しさ、対話篇の中にも言葉の美しさ、こうしたものがあると思いますが、この芸術性ですね。これがあるからこそ長く残り、多くの人びとの心を揺り動かすことができるのです。そうした美しさ、言葉選びの美しさ、言葉の格調の高さ。人の心を揺さぶるような感動的な言葉、こうしたものが心に残っていくわけです。仏典の中でもそうであって、仏陀の人の心を揺さぶるような、そうした対話篇が珠玉の名篇として残っているのではないでしょうか。その時々の人びとの心に合わした言葉というものが、歴史上残ってきて、さまざまな人に影響を与えてきたのではないでしょうか。 したがって、完全な理論的なものというだけではなくて、その都度その都度に人びとの心を揺さぶるような教え、これがあっていいのです。そうしたものであっていいのです。臨機応変の対話のなかに、本当は人生の真実と神理の光というものが、宿っているのです。 文学という形式においてもそうです。さまざまな登場人物を登場させ、そして話を進めていきますが、この登場人物というのが、ひとつの生命を得て、ひとつの個性を得て、だんだんに動いていきます。やがて作者の手を離れていくのです。登場人物というのは、作者の手を離れて動いていきます。その個性でもって、さまざまなことを言い、さまざまな行動をしていくようになっていくのです。その中に、本当に素晴らしいものが残っていくことが多いわけであります。 以上で、いわゆる対話形式、戯曲形式という形式が、ひとつの普遍性を帯びたものであるということ。またその言葉の美しさ、感動をそそるような言葉の選び方というものが、またこれが人類に多く奉仕するようなものであるということ。こういう話をしました。 2.すべての光の天使に与えられた「詩」という武器、方法論 シェークスピア また、これとは違った観点から、私は詩というものを捉(とら)えてみたいと思います。これは今の美しい言葉、感動させる言葉とも関係しているのではないかと思います。 古来より聖人とか、偉人とか言われた人たち、宗教家もそうですし、大宗教家もそうですが、残らず詩人です。大宗教家で詩人でなかった方はいません。すべて詩人です。こうしてみると、詩というもののなかには、ひとつのなんらかの力、これがあるということが言えると思います。 詩とは、何でしょうか。それは、言葉に宿りたる感動の響き、調べ、こうしたものをもって、人びとを揺り動かすという力です。 日本で言えば、日蓮というような僧侶であっても、これは偉大な詩人であったと思います。空海も詩人であったでありましょう。釈尊そのものが詩人でもありました。キリストも詩人です。非常な詩人であります。孔子も詩人であります。ソクラテスも詩人です。そういうふうに、詩というものが、やはり人の心を捉えて離さないのです。 詩とは一体、では何でしょうか。何が一体詩と言えるものでしょうか。短かい言葉のなかで、人の心を揺り動かすようなもの、その人の心を揺り動かす言葉というもの、それは何かというと、それは言葉のなかで、人類の使ってきた言葉のなかで、一番美しい言葉を、一番美しい形で配列してみせるということです。どんな思想であっても、言葉を使わずに思想を表すことはできません。しかし、その言葉に力があります。その言葉に響きがあります。その言葉に光があるのです。そうではないでしょうか。 こういうふうに、詩という形式、これを重視することが大事です。特に根源的なる法、根源的なる神理、こうしたものを説こうとしている人は、この詩という観点を忘れてはならない。それは、非常に人びとの口にのぼりやすく、また、人びとの記憶に残りやすい。そしてまた、人びとを揺り動かすものだからです。 有名な演説もそうです。すべて詩です。有名な演説、有名な講演の中には、素晴らしい講演のなかには、人びとの心を揺り動かすような、詩句、調べがちりばめられているはずです。 これはひとつの方法論なのです。神は、地上に遣わした光の天使たちに、「詩」という方法論をお与えになったのです。光の天使たちが、自らが光の天使であることの証明のために、美しい言葉を、この世ならざる言葉を彼らに数多く語らせるようになっているのです。その「詩」という武器でもって、地上の人びとを済度(さいど)し、救わんとさせているということです。 ですから、本物の宗教家は詩人であり、もちろん芸術家も詩人であります。戯曲家も文学者も詩人であります。そういう詩という形式、これに対する評価、これが大事であろうと私は思います。ま、文学の形式について簡単に話をしてみましたが、これ以外に、あなたの方から聞きたいことがあったらお聞きしましょう。 ―― 言葉というものは、各国、民族によって違いますけれども、やはり元になるものは、ひとつであるわけですね。意味するものは、どのような言葉を使おうとも。 シェークスピア 元々あるものは霊界にある念(おも)いしかありませんから、その念いを三次元的にどのように表すかという、その表し方に、さまざまな差がある。ま、こういうことにしか過ぎません。本来はひとつのものです。もちろんその通りです。 ですから、いろんな言葉が翻訳されるということは、人間の念いというもの、その念いの可能性ということにおいて、まったく予想外のことは、あまりないということです。それぞれの民族に出会っても、念いという可能性は、だいたい同じだということです。 それでは、あなたの方から特にご質問がないようですから、私の方からさらに話を続けていくとしましょう。 3.「死」という悲劇の奥に霊的世界の存在を教えた シェークスピア いわゆる、「悲劇論」ということについての話をしたいと思います。私は、文学の手法として、「悲劇」というものを、かなり重視いたしました。そして、こうした悲劇を数多く創ることによって、人びとに感動というものを起こさせるということをいたしました。この悲劇の在り方というものについて、考えてみたいと思うのです。 この世的なる悲劇とは一体何でしょうか。その最大の悲劇というものは、いわゆる「死」であります。愛するものの死、肉親の死、まあこうした、殺したり、殺されたりというようなこともあるでしょう。こうした死ということが、人生最大の悲劇でもあろうかと思います。私が悲劇として追究したテーマは、ほとんどこの「死」ということであったと思います。また、戯曲の中には「幽霊」というようなものを数多く私は登場させました。この辺に、死というものを縁とした人間の真実、人生の真実というものを描いてみたいと思ったわけです。 この死というものと対面せずしては、文学は成り立ちません。芸術も成り立ちません。哲学も成り立ちません。宗教も成り立ちません。医学も成り立ちません。この死、死とは一体何なのか。人生における死の意味、死のもたらすもの、その悲劇性、悲劇の奥にあるもの、これは一体何なんだろうか。これを、私は問い続けたわけであります。 また、人間の念(おも)い、念、想念というものが、どれほど悲劇をつくり出していくかという、その法則性についても私は数多く語ってまいりました。悲劇の根源にあるのは、人間の欲望であること。それを私は数限りなく戯曲の中で語ってきました。欲望があり、「自分が、自分が」という念いが悲劇をつくり出しているということを、私は語ってきました。そしてその死というものも、やはり乗り超えていけるものであるということも、語りたかったのです。 ですから死というものを、この世的に見れば非常に悲劇的なるものとして捉(とら)えられるわけですが、これは、しかしながら多くの人の心を打つものでもあります。死に際しては誰もが悲しい。死を見て喜ぶ人は数少ない。この難しいテーマです。 しかし、この世的には悲劇的であり、難しいテーマであるものが、あの世的に見たらそうでもないという、この逆説、パラドックス、ここに大いなる人生の秘密、これがあるわけであります。 ―― 芸術という立場からすれば、やはり先生も仰せられたように、光があるところには、やはり光が光として光るには、それを認識できるには、人間としてのやはり苦しみとか、悲しみ、そういうものがあって初めて、その光をより強く感じられるのであるというようなお話でございまして、死を縁として宗教も哲学も、実は人生も、芸術もあるのである。それを抜きにしては存在しないのである。というふうなお説を承っておりました。そういうことで、この悲劇もそのひとつの表現形式として捉えられているのであるという、お話を承っている最中でございましたのですが、その辺のところを、もう少しお願いいたします。 シェークスピア わかりました。ま、もうひとつはね、私が言いたかったのは、私のテーマの中で「死」ということ、人間が死ぬということ、人間は不死ではない、その寿命、生命に限りがある、ということでした。しかし、限りがあるけれども、その限りを超えた世界もまたある。この辺のことを、私は文学の中でいろんな形で問うてきました。 結局ね、文学という形式を通して人間の本来の姿、人間が魂であり、霊であるということを教えるということが、私の使命でもあったということであります。絵画を通して、天上界の世界を教える方々もいるでしょう。音楽を通して、天上界の世界、霊の世界を教える方もいるでしょう。私のように文学を通して、その霊的世界の存在を教える人もいるということです。 4.人生の悲劇は"運命の嵐"のなかに漂っている一枚の木の葉 シェークスピア ですから、まず私は、その人間の生死、これを超えた魂の存在ということ、これを文学のなかにずいぶん折り込みましたし、私のその悲劇論とも関連したテーマのひとつとして、非常に重要であったものが、実は、「運命」、「運命論」であります。人間の運命とは一体どのようなものなのか。これが描きたかったのです。人間の運命、それぞれの人間には運命がある。その運命は、どのようにして形づくられていくのだろうか。また、運命に抵抗しようとして、それから逃れられないでいる人間の悲劇、これを描きたかったのです。 広い意味では、そうした運命というものに翻弄されつつ生きる人間の姿を描きながら、この三次元世界の意味、現象世界の意味というものを説き明かしたかった。これが私の考えであります。私の文学に、戯曲に貫かれているものは、この「運命論」であります。 そして人間は、なぜそういう運命があるかということを知らないままに、運命の糸に操られて生きている。それは、私もそう、あなたもそう、あなた以外の方々もそうであります。運命の糸に操られて生きている。 この運命をつくっているものは一体何なのか。これは、仏教的に言えば過去世の「業(ごう)」ということ、カルマということでもあろう。それを西洋では必ずしも認めてはいないけれども、何かしらそうしたものがあるということ。そうした「業」というものに似たものとして、その魂の傾向があるということ。不幸を呼び寄せるような人間の心があるということ。こうしたことを私は描きたかった。 それともうひとつはね、その恨みの心、妬みの心、呪いの心、こうしたものが、いかに悲劇を創り出していくか、この観点であります。人生を悪くしているものの根源は何なのか。悲劇の根源は一体何なのか。何がそうした悲劇性を創り出しているのか。私は、これを描(えが)ききったつもりであります。 それは結局のところ、人間の嫉妬心であり、猜疑(さいぎ)心であり、恨みの心であり、妬みの心である。呪いの心でもある。こうしたことですね。こうしたものが結局、人生の悲劇を生み出しているのではないか。こういう人間性の在(あ)り方、心の在(あ)り方、心の醜(みにく)さ、こうしたものを赤裸々(せきらら)に描くことによって、人々に、自分の存在、これをもう一度見直していただきたい。こういう気持ちが、私にはあったわけであります。 人生を不幸にしているものは、結局その人の心の持ち様(よう)であり、その心の奥底から出てくるものです。私は嫉妬とか、あるいは憎しみとか、あるいは嫌悪感、こうしたものも結構魂の根深いところにあるものだと思っています。魂の根深いところから、こういうものが吹き出してきて、それが人の人生をさまざまに変えていきます。 私は、あまり喜劇物であるとか、ハッピーエンドの物を書きませんでしたが、それは、深く魂というものを見つめるという機会を失ってしまうからです。悲劇の底に真実があるということは、つまり悲劇の底には人間の心を揺さぶる何かがあるということです。人間性の本源が何かある。この部分を知らねばならん。 結局のところ、人間というものは、自分というものから究極において離れ得(う)る存在ではないということであります。その恨みの根源、嫉妬の根源、猜疑心の根源、これは一体何かと言えば、結局、自分だけは別である、まったく別の存在である、こうしたことであります。これによって、こうした悲劇の誕生があるわけであります。 しかし、私は運命に翻弄される人間の姿を描くことによって、人間の人生というのは結局、嵐の中の一枚の木の葉にしか過ぎない、ということを描きたかったのです。「自分が自分が」という思い、「自分こそがよければよい、自分だけがよければよい」という念(おも)い、その念(おも)いに生きているという自分という存在も、結局、運命という嵐のなかの、嵐のなかに漂っているところの一枚の木の葉にしか過ぎないということ、これを知っていただきたい。こういう気持があったわけであります。 5.悲劇は人生の真実を見つめさせ、魂を光らせる シェークスピア 人びとは、ともすれば安易な日々の中に埋もれていきます。けれども、安易な日々の中において、深く魂というものを、深く人生の真実というものを見つめる機会が、悲劇ということによって初めて与えられるのです。これは、戯曲のなかだけではありません。あなた方、一人ひとりにとってもそうです。本当に自分というものを見つめる機会とはいかなる時でありましょうか。それは得意の時ではなくて、失意の時であります。失業をしたり、大病をしたり、あるいは離婚をしたり、失恋をしたり、経済的困窮(こんきゅう)のなかにあって、魂は、深く深く、自らを省みるのではないでしょうか。結局、悲劇と言われているもののなかには、神が人間をして自分自身の魂の本質を知らせんとするための慈悲がある、ということです。 この世を極楽浄土そのものであるという方もいるでしょう。まったくの光明一元だと言う人もいるでしょう。しかし、平均的な人間から見れば、この世というものは、さまざまな罪悪であるとか、間違いであるとか、悲しみに満ちているかのように見えます。そして、それらのものを、単に悪しきものと一蹴(しゅう)する立場もあるでしょう。単に悪しきものであり、何の意味もないというふうに見る人もいるでしょう。ただ私は、必ずしもそうは思わない。病気は神がつくられたものではないという方もいるでしょう。確かにそうかもしれない。しかし、現に病気があるということ、病気があるという現実を、神がそのままにしておかれるという事実があるわけです。それは、そこに何かの意味があると、やはり見て取った方がいいのです。神は健全なる人間をつくったでしょう。しかしその健全なる人間が、人生の途上において病に伏せることがある。倒れることがある。 ではなぜ、そうした病をそのままにしておかれるのか。これは単に人間だけの不明の至りなのか。それとも、人間がつくり出した間違い心の結果なのか。確かにそういうことも言えるかもしれない。しかし、その間違いを間違いとして容認し、眼をつぶっておられる神の存在があるということであります。知らぬ存ぜぬでは済まぬはずであります。なぜあるか、なぜ病があるか。結局のところ、深く深く自らを省みる機会として、それは存在の意義があるからである。魂を光らせる意義があるからである。私は、そのように思います。 実在界において病はない。その通りであります。してみれば、病を得るという機会は三次元のみの機会であります。その機会において、肉体の苦しみと霊の悦びというものを徹底的に知るという機会、これがあるのではないでしょうか。魂は、やはり苦難、困難を経て光ってくるものではないでしょうか。常楽の世界、そういう世界のなかにおいて、本当に魂が光るでしょうか。 さまざまなものごとを、二元的に捉える人もいるけれども、結局、本当は二元ではないのである。これは結局のところ、楽であるとか、喜びであるとか、楽しみであるとかいうようなことは、これは優しい毛皮のようなものなのです。手に触れても優しい、暖かい、柔らかいものです。毛皮ですね。しかしこれとは違ったものがある。それは砥石(といし)の部分です。あるいはサンドペーパーと言ってもよい。やすりであると言ってもよい。人生にはやすりも必要、仕上げのためのスポンジも必要、どちらもいるのです。優しい面と厳しい面、この両方がいるのです。この両方が一体となって、人生を磨くための材料となっているのです。 善悪という二元があるのではなくて、悪は善を伸ばすための素材として、存在が許されているのだと知ることが大切であろうと思うのです。単に悪がない善だけの世界であるよりも、善悪があり、悪が善を光らせるための、伸ばすための素材として許されているという世界のなかに、また、無限の進化の可能性があると思われるのです。 したがって、悪そのものは、神の属性ではもちろんないでありましょうが、そして人間自身がつくってきたものであることも事実でありましょうが、その悪という存在を、また巧妙に使っておられる神があるということも私は事実であろうと思います。 6.「相対的運命観」と「絶対的運命観」との綾糸(あやいと) シェークスピア こういう観点からみれば、この人生における悲劇も、喜劇も、これはすべて大いなる計画のもとにあると言わねばなりません。運命論をとってもそうで、「運命と自力」という問題は、古来より宗教家たちの得意とした問題でありました。自力論のなかに生きる人間にとっては、すべて自分の努力によって勝ち得ていけ、自分の選択によって道を選べる、こういう考え方がある。これとは逆に、運命論でもって、すべてはもう神の心で決まっているのだという立場もある。これらの人たちは全託して生きていくであろう。こうした時に、我らはどう考えるか。 やはり、運命には二つの見方があると思うのです。その二つの見方の第一は、ある程度の運命は決まっているが、残りの部分は自分の力によって、考えによって切り開いていけるという「相対的運命観」が一つであります。ある程度の流れがあるけれども、その中でどのように漕(こ)ぎ、泳いでいくかということは、自由とされているという考え。こうした「相対的運命観」があると思うのです。そしてこれが事実、主流であることは本当であろうと思います。 これに対して「絶対的運命観」というものが存在いたします。絶対的運命観とは何かと言うと、すべてのことは神がご存知である。神のご計画のままにあるということです。これについて、私たちは深く神の心そのものを知ることはできません。神がどのようなお考えで、地上にさまざまな素晴らしい出来事を起こされたり、災害を起こされたりしておられるのかそのお心はわかりませんが、究極の神から見て、この地上に起こることでわからぬことは何もないはずである。こういう見方もあるはずであります。 しかしこれは、神のお心を忖度(そんたく)するのみであって、実際に私たちにとってはわかる世界ではありません。しかし、また、「絶対的運命観」もどこかにあり得るはずです。この世に偶然なるものはない、という考えもあるわけであります。自由意志と自由意志がぶつかりあって、その結果このようになっていくであろうということをわかる人も、どこかにいらっしゃるはずであります。そうした眼から見れば、運命はすべて決定済みであります。コンピューターの如き正確なる計算ができる人がどこかにいるはずであります。 しかしそれは、地上にいるあなた方にはわからない。この見地からいくならば、あなた方は相対的運命観の中で生きていかれたらよい。ただ、そうしたあなた方の善も悪もすべてを包み込みながら、眺めておられる大いなる存在があるであろうということ、それだけの認識、これは必要であろうと思います。運命の枠から外(はず)れたと思っていても、それもまた神の手のなかにある運命であったと、こういうこともあるということを、知らねばならぬ。 しかし、さまざまな文学作品を書いてまいりましたが、この運命というものの研究、探究は、結局神のお心を知るという意味では、非常に大きな材料になります。今では自然科学、これを突き詰めていって、神の姿を知ろうという動きもあるかもしれない。あるいは霊文明、霊的な科学、精神科学を通じて神を知らんとする動きもあるかもしれない。しかし、こうした文学というテーマ、人間の運命というものを探究することによって、神ご自身のお考えと、神ご自身の性質、こうしたものを学び取り、見抜くことができるという観点もあり得るであろうと思う。 神は一見、非常なお人好しのようにも思います。地上で人びとが、どのように自由に振る舞い、自由自在に生きていても、お人好しの如く、何千年、何万年、何百万年と待たれておられるお人好しな神、慈悲だけの神という存在に見えることもありますが、その反面、非常に賢(かしこ)い神、すべてを知っているのではないのか。すべてを知り尽くしているのではないのか。知り尽くしていて敢えてやらしている神というのがあるのではないのか。私は、人間の人生の真実を探究すればするほど、そうした感情に突き動かされたわけであります。 さすれば我ら人間は、この大いなる巧妙なる世界において、神の狡猾(こうかつ)な計算というものを見破っていかねばならぬ。そのなかで、糸を手繰(たぐ)られている自分ということを、認識せねばならない。その糸がついている自分というものを知った時に、初めて自分はまた主体的なる生き方ができるのではないのか。自分が主体的に生きていると思いつつ、実は自分の背後にピアノ線のようなものがつながっているとするならば、これは自由自在な人生ではない。まずそうした糸がついているということを認識することによって、かえって自由さというものが広がっていくのではないのか。出てくるものではないのか。私はそのように感じたわけであります。 したがって、私は思うのですが、人間は本当に自分が自由意志でもって考えていることなのか、盲目的衝動でもって突き動かされているものであるのか、この辺を常々見つめてゆかねばならん。これを知らないということは、愚かであります。 私は悲劇論を書きましたが、それを研究すればするほど、こういうことになれば、こういう原因をつくれば、こういう結果が起きる、こういう不幸な念いを持ったら、こういう不幸な結果が生ずるということ、この原因、結果の法則というものを、さまざまな形で解き明かしたわけであります。これを知っているか、いないかということも大きな違いがあります。不幸の原因と結果、これを知っているということは、自分自身そのなかでどう生きていけばいいか、ということへの判断ができるはずです。 ところが、それを知らぬということは、過去の人が何千人、何万人、何十万人と繰り返した不幸を、もう一度、繰り返すことにもなりかねません。いろんな人の生き方を知り、その手本を知るということによって、新たな生き方をしていくことができます。自分が同じレールに乗っているのか、いないのかということを知ることです。これが賢い人生への出発点でもある。私は、そのように感じるわけであります。 まあ以上が私の悲劇論、あるいは運命論ということでありますが、これ以外にあなたの方から特に聞きたいということがあれば、お答えいたしましょう。 7.光一元の思想だけでは、片眼だけでは人生の奥行きはわからない ―― 私は、まだ勉強が浅いものでございますけれども、最近日本神道系から出られた、谷口先生という方が、光明思想をもって人びとに「光一元」の思想をお教えされておられるのですけれども、ここでは、そう思うことは、それは神を忘れている姿であるということで、あくまでも神は光一元の方であるということで、その方向へ、光に向かって心の照準を合わせていくんだということを、強くお説きになっておられ、闇、病、苦しみというものは心の迷いであると言って、そのウェートをずっと下げておられるのです。この辺のところの理解のしかたについて、お教え願いたいと思います。 シェークスピア ま、これはね、いかに深く人生を見るかということであると思うのです。その教えの中には、人生のある部分はよく見えるけれども、ある部分は見ない、眼をふさぐという面があるように私は思う。片眼でもって観た世界をよしとするか、両眼でもって観た世界をよしとするかということです。片眼でも世界は見えるであろう。しかし片眼では遠近感がない。遠い近いがわからない。そういうことではないでしょうか。 したがって、良きもののみを観る観点は確かによいかもしれぬが、ただものごとの遠近感がわからない。ものごとの深さがわからない。人生の奥行きがわからない。私はそのように思います。悲劇があっても、悲劇がないとだけ言い切ることに、その悲劇への探究はない。すなわち、片眼で観ているのと同じです。遠近感がないのです。両眼で観ているから遠い近いがわかる。こういうことです。 まあどちらを好まれるかは自由でありましょう。ただその生き方も、片目で観るというのがもっと行き過ぎれば、馬車馬の如く、眼隠しをして進むという方向にもなりかねません。あなた方は真直ぐ前に進むためだけの馬車馬ではないのです。本来自由自在ではないのか。馬が恐れてはならんということで周りの景色を見えないようにして、ただ走るということだけをもってよしとされるか。まあ私は、そういう観点からものごとを見ています。馬が驚いて、右に曲がったり、左に曲がったりしてはいかんから、眼隠しをするということがあります。ただ、そういうあなた方であって、本当に満足でしょうか。私は、人生の深さという観点をとるわけであります。 8.文学を通して幾転生に当る無数の人生を知れ シェークスピア それでは時間も近づいてきたようですから、最後に、締めくくりの言葉を残しておきたいと思います。人びとは文学離れということをして、もう時久しいかもしれません。文学を読まなくなった。また、文学者のレベルが低いということもありましょう。現代の日本においてもそうです。文学というのは特殊なジャンルになってきて、非常に軽薄な観を呈しているように思う。 しかし、文学の本当に大事なところは、人生の真実を知り、人生というものを見つめ直す機会を与えるということです。その意味において、ひとりの人間が数十年の人生で生きられる範囲というもの、得られる経験というものは少ないけれども、優れた文学作品を読むことによってその経験が広がり、人生を考える素材が与えられるということがあります。 よって、これから二つの道がある。すなわち、優れた文学者が数多く出て、人生の真実をできる限り教える、良いことも悪いことも両方教えていくという、そういう努力、これは何ものにも換え難い。もっともっと人生を教えてやらねばならん。それも現代にある人生のみならず、過去にあった人生、未来に来るであろうさまざまな人生、その生き方、これを教えることによって、人びとの心を富ますということはできるのである。 こういう意味において、文学者は、もっともっと努力せねばならん。もっともっと頑張らねばならん。奇抜な軽薄なことばかりを書くのでなくて、もっともっと人生の達人となって、人びとに心の糧を与えねばならん。そういうことで、この私の書を読む者たちに対して、文学者に対して、文学に携わっている人たちに対して、もっと人生を知れ、もっと人生を学べ、そしてそれを教えよ、こういうことを言っておきたいと思います。ま、これは書く方の側であります。 やはり、読む方の側も大事であります。文学というものを無駄なものと思わず、その中に自分の経験を広げるための素材があるということを知れ。人間一人の一生をサラリーマンで終えた時に、その経験の範囲は狭いものです。その狭い範囲を乗り超えて、どれだけ大きな世界観を獲得できるか。それは、多くの文学を読むということであろうと思う。ま、優れた文学だけを読むのが本当は一番よいけれども、必ずしもそうはできないのであるならば、できるだけいろんなものに接していって、その中から優れたものを選(よ)りすぐっていくということです。 古典と言われるもの、名作と言われるものの中には、人類が永年愛してきたものがあります。その中には、それなりの光があります。その光を愛してほしい。宗教家だけが光ではない。文学者の中にも光はある。その光を愛してほしい。大いなる文学の中にさまざまなる人生の糧を得る、文学を読むことによって幾転生するだけの、それだけの経験を得ることができることもあるということです。これを知って、文学の意味をもう一度見直してほしい。このように私は思います。 どうか、人生を知るという修行において、果てはないということを知っていただきたい。無数の人間が生きている以上、無数の人生があり、その無数の人生を知るということが、実は神に近づいていく階梯(かいてい)であるということを知らねばならない。神は、その無数の人生をすべて知っておられるのです。すべての人の人生を知っておられるのです。 であるならば、私たちの修行の目的は究極の神に近づいていくことであるならば、その無数の人生を知るという努力を怠ってはならぬ。学問だけが学びの糧ではない。無数の人生を学ぶということ、知るということがまたひとつの生き方であります。これが修行であります。無数の人生を知る。無限の数の人の生き方を知る。こういう勉強もあるということを、魂の修行もあるということをどうか忘れないでいただきたい。そういう言葉を締めくくりとして、私の今回の霊示は終わりたいと思います。 ―― ありがとうございました。非常に高邁(まい)なお説を承りまして、心を新たにさせられる思いでございます。おそらく、この先生のお言葉が書となりました頃には、世の多くの人びとが深い感銘に打たれることであろうと、自らの人生をもう一回見つめ直すことであろうと、このように思います。ありがとうございました。 シェークスピア では還(かえ)ります。 ―― どうもありがとうございました。
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15thシェークスピア杯優勝デッキ 上級 100P/30枚 わりとフツーな実戦用デッキです。 独特なのはアフリカヌスコンボぐらいかな? (ラゴス) よく見たらキリスト磔刑が入ってない!入れ替えの際に見落としてたんですね…orz -- ラゴス (2009-12-10 21 50 46) 名前 コメント
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「よろしくな、俺のニドラン!」 少年は、生まれたばかりのニドラン♂を抱き上げ、満面の笑みを浮かべていた。 命の誕生の瞬間……いつ立ち会おうと微笑ましくも嬉しいものである。 ……が、少年よ。ワシは一つだけ問いたい。 「少年よ。それだけそのポケモンが好きなら、何故今まで数多くの同種を犠牲にするような事をするのだ」、と。 ワシも若い頃はトレーナーとして、パートナーと共に野山を駆け抜けて、何人ものトレーナーとバトルし続けた。 ワシの隣で、いつも一緒に戦ってくれたアイツ……今は引退し、もうアイツは居ないが、それでも鮮明にあの頃を思い出せる。 少年よ。大切なのはポケモンの能力などではなく、そのポケモンと過ごして来た日々なのではないのか? 「大事に育てるんじゃよ」 最後に少年にワシから言える言葉は、ただそれだけだった。 願わくば、生まれた命に幸の多からん事を…… 作 2代目スレ 134
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このページはこちらに移転しました 父が遺した最後の言葉 作詞/238スレ241 作曲/238スレ270 ぬわーーーーーーーーーーー 音源 父が遺した最後の言葉
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悪頭(わるがしら)の覚醒者ウィリアム・シェークスピア C 闇文明 (9) サイキック・クリーチャー:ダークロード 7000 ■W・ブレイカー ■相手の呪文またはクリーチャーの能力によって、このクリーチャーがバトルゾーンを離れる時、相手は自身の手札を2枚選んで捨てる。 覚醒前:《時空の邪将ウィリアムズ》 作者:赤烏 フレーバーテキスト DMW-09 「帝王編(エクセレント・マスター) 第1弾」今、確かに覚醒の力で己を満たした。確固たる意思と覚悟を持って! サイクル 「DMW-09 「帝王編(エクセレント・マスター) 第1弾」」のコモンサイキック・クリーチャー。 《時空の冷笑ユーコン》/《賛美の覚醒者ユーフラテス》 《時空の魚雷スティーブ》/《巨兵の覚醒者ステファンX》 《時空の邪将ウィリアムズ》/《悪頭の覚醒者ウィリアム・シェークスピア》 《時空の闘魂カイラス》/《竜魂の覚醒者ドラゴンピーク》 《時空の武人スパロウ》/《武神の覚醒者シャバ・スパロウ》 収録 DMW-09 「帝王編(エクセレント・マスター) 第1弾」 評価 名前 コメント