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フリティゲルン西ゴート族????~380?統率:B 武力:A 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------西ゴート族の族長。フン族の侵攻でローマ帝国内に移住したが、飢餓に陥り奴隷のように扱われたため反乱を起こす(ゴート戦争)。ハドリアノポリスの戦いでローマ皇帝ウァレンスを敗死させる。その後、トラキアやマケドニアを略奪した後にローマとの間に休戦協定を結んだ。
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アタウルフ西ゴート族370頃~415統率:C 武力:C 政治:D 知力:D 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------西ゴート族の王。アラリックの死後、義理の兄弟だったため後継者となる。人質となっていたガッラ・プラキディアと結婚するが、逆に許嫁だったコンスタンティウス3世の攻撃を受ける事態となってしまった。 アラリック1世西ゴート族370~410統率:A 武力:A 政治:D 知力:D 文化:D 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------西ゴート族の王。ビザンツ皇帝テオドシウスと同盟を結んでいたが、皇帝の死後ビザンツ帝国に侵入し、コリント、アルゴス、スパルタを破った。後に西ローマ帝国にも侵入し、ローマ市を略奪する。更に北アフリカ向かう途上で水死する。 シゲリック西ゴート族????~415統率:C 武力:B 政治:D 知力:D 文化:D 魅力:D--------------------------------------------------------------------------------西ゴート族の王。前王アタウルフが暗殺されると有力貴族の後援を受けて王となる。残酷な性格で、アタウルフの息子を全員処刑し、ガッラ・プラキディアも侮辱した。ローマに対しても敵対政策を取ろうとしたため即位から7日で暗殺された。 ワリア西ゴート王国????~418統率:B 武力:C 政治:B 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------西ゴート族の王。暗殺されたシゲリックに代わって王となった。西ローマ帝国と条約を結び、イベリア半島のヴァンダル族やスエビ族を撃退した。そしてガリア定住の許可を得て西ゴート王国を建国して初代国王となった。
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アタラリック(アタラーリコ)東ゴート王国516~534統率:C 武力:B 政治:C 知力:C 文化:D 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------東ゴート王国第2代国王。父は西ゴート族のエウタリックで、母が大王テオドリックの娘アマラスンタ。父が急逝したため10歳で国王となり母が摂政を務めた。ゴート族特有の派手な生活を好んだ。 アマラスンタ(アマラスウィンタ)東ゴート王国????~535統率:B 武力:D 政治:B 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------東ゴート王国第3代女王。大王テオドリックの娘で先王アタラリックの母。幼いアタラリックの摂政を務め、ビザンツ帝国との協調路線をとった。アタラリックが病死すると女王に即位したが、従兄弟のテオダハドの反乱で失脚した。 イルディバルド(ヒルデバドゥス)東ゴート王国(生まれは西ゴート王国)????~541統率:C 武力:C 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:B--------------------------------------------------------------------------------東ゴート王国第6代国王。西ゴート国王テウディスの甥に当たる。先王ウィティギスがビザンツ帝国に囚われると、王に選出される。しかし、饗宴の合間にゲピト族の者に殺害された。 ウィティギス(ヴィティージェ)東ゴート王国????~540統率:B 武力:A 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------東ゴート王国第5代国王。大王テオドリックの下で活躍した将軍。国王テオダハドがビザンツ帝国の攻撃を受けてラヴェンナに退くと東ゴート王を名乗った。ササン朝と共にビザンツ帝国を攻撃しようと画策するがビザンツ帝国に囚われてしまう。 エラリーコ東ゴート王国????~541統率:E 武力:C 政治:E 知力:E 文化:E 魅力:E--------------------------------------------------------------------------------東ゴート王国第7代国王。イルディバルドが殺害されるとルギ族に推されて王となる。しかし、無能だったため5ヶ月で王位を親族のトーティラに譲った。その後、陰謀により殺害された。 テーイア東ゴート王国????~553統率:C 武力:C 政治:C 知力:C 文化:D 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------第9代にして最後の東ゴート王国国王。第ニ次ゴート戦争で戦死したトーティラの後を継いで王となる。しかし、モンス・ラクタリウスの戦いでビザンツ帝国のナルセスの軍に敗れて戦死した。この敗北で東ゴート族は勢力を失った。 テオダハド東ゴート王国????~536統率:C 武力:C 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------東ゴート王国第4代国王。大王テオドリックの甥に当たり、従姉妹でもある先王アマラスンタの共同統治者となる。その後、アマラスンタを追放して単独統治者となるが、ビザンツ帝国の攻撃を受けて、逃亡先のラヴェンナで暗殺された。 テオドリック(テオドリクス、テオドーリコ)東ゴート王国454~526統率:A 武力:A 政治:B 知力:C 文化:C 魅力:B--------------------------------------------------------------------------------東ゴート族の王。ビザンツ帝国に圧力をかけて、軍事長官に任命されると、オドアケルを討つためにイタリアに遠征する。しかし、そのままラヴェンナに入城して東ゴート王国を興した。後に『大王』と呼ばれる。 トーティラ(バドゥイラ)東ゴート王国????~552統率:A 武力:B 政治:C 知力:B 文化:C 魅力:B--------------------------------------------------------------------------------東ゴート王国第8代国王。農民を徴兵して軍を強化してローマ市を2度にわたって占領・略奪をした。ビザンツ帝国に対して2度目のゴート戦争を引き起こしたが、タギナエの戦いで戦死する。
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初めに... Total War ATTILAの発売が間近に迫っていますが本タイトルのキャンペーンスタート時期、紀元395年とはどういった時代だったのでしょうか。 アッティラという人物自体、日本では知名度の低い人物なので少なからず疑問に思っている人もいるかと思います。 そこでこのページではTotal War ATTILAに向けて紀元395年という年がどういった時代だったのかを軽く解説していこうと思います。 東西に分割されたローマ帝国 時のローマ皇帝、テオドシウスはその死に際して帝国を東西に分割し二人の息子に与えました。 紀元395年はテオドシウス帝が死去し、ローマ帝国が東西に分割された年であり、それ以降ローマ帝国が再統一されることはありませんでした。 これ以後、西ローマ帝国は次男のホノリウス、東ローマ帝国は長男であるアルカディウスによって統治されることになります。 紀元395年のローマ帝国の現状 この頃のローマ帝国はほぼ完全にキリスト教国化されており、キリスト教の司祭や司教が絶大な権力を振るうようになっていました。 帝国の首都はもはやローマではなく長きに渡って栄華を誇った永遠の都ローマもその重要性を徐々に失っていきました。 西ローマ帝国はゲルマン民族大移動の影響をもろに受ける結果となり、確実に滅亡への道を歩むことになります。 東ローマ帝国も繰り返されるササン朝ペルシアとの戦争、フン族の侵攻により徐々に疲弊していきます。 最後のローマ人、スティリコ スティリコは西ローマ帝国の軍人であり、滅亡に向かって突き進む西ローマ帝国を支えた最後のローマ人とも名高い人物です。 スティリコはテオドシウス帝のもとで頭角を現し、紀元394年にはローマ軍の総司令官にまで上り詰めました。 そしてテオドシウス帝の死に際し、10歳という若さで西ローマ帝国を継いだホノリウス帝の後見人を勤めることになります。 しかし長い治世の間、ホノリウス帝は宮廷に篭りきりとなり、帝務に全く関心を示さなかった為にスティリコは事実上のローマ帝国軍の最高指揮官として帝国の防衛に奔走することになります。 彼の活躍は目覚しく北アフリカで勃発した反乱の鎮圧、当時帝国領土を荒らしまわっていたアラリック率いる西ゴート族軍を幾度も打ち破るなど絶大な功績を誇りました。 しかしそんな活躍をよそ目に父が蛮族の出身であるスティリコを快く思わない東西ローマ帝国の官僚は彼を半蛮族と差別し、幾度となく妨害工作を謀りました。 ホノリウス帝が成人し、後見人であったスティリコとの関係が疎遠になるにつれ、皇帝側近のオリンピウスが権力を伸ばすと官僚とスティリコとの対立関係はますます激化していくことになります。 そして当時西ローマ正規軍の宿営地が置かれていたパヴィアにてオリンピウスの謀略により蛮族と内通したとしてスティリコ派の一掃がなされると対立は決定的となります。 これに対しスティリコには軍を起こし進軍することも可能でした。実際にボローニャに滞在していた軍団はスティリコ側に立つとも宣言していたのです。 しかし幼少の頃からホノリウスを知るスティリコには皇帝がこの件に関わっているとは信じられず、ラヴェンナにいるホノリウス帝のもとへ弁明に向かいます。 しかしラヴェンナに到着するも、皇帝の居室の扉は彼の前に閉ざされたままでした。ホノリウス帝は自身の治世が始まってから13年間にも渡り、帝国の防衛に奔走した忠臣に会おうともしなかったのです。 代わりにスティリコの前に現れたのはあのオリンピウスで彼は皇帝の下した死刑宣告を読み上げました。内容は蛮族と共謀して帝国の転覆を図った罪、でした。 裁判も行われることすらなくスティリコの処刑は紀元408年8月23日に執行されました。 長年に渡って皇帝に忠誠を誓い、最後まで帝国の防衛に貢献した蛮族出身のローマ帝国軍司令官の生涯はこうして幕を閉じたのです。 彼は間違いなくこの時代の主人公であり、古き良きローマ人のスピリットを宿した「最後のローマ人」と呼ばれるに相応しい人物でした。 彼の死から68年後の紀元476年、西ローマ帝国はついに滅亡することになります。 フン族とは 本作品のタイトルにもなっているアッティラという人物ですが、実は彼の治世はフン族の歴史においては短期間の、それも末期に属する一エピソードでしかありません。 彼の生年は定かではありませんが紀元406年頃と言われているのでゲーム開始時の紀元395年時点ではまだ生まれてすらいないわけですね。 フン族が何者であるのか、その具体的な事は殆どの部分が謎に包まれています。 ただ確実に言える事はフン族は4世紀になって初めてヨーロッパに現れ、彼らがアジアをルーツとした遊牧民の一団であるということだけです。 このフン族とローマ帝国が最初に接触したのは紀元395年、フン族が東ローマ帝国へ大規模な攻撃を仕掛けたのが始まりでした。 それ以降、フン族は断続的にローマ帝国領(主に東ローマ帝国)へ侵攻を繰り返します。 一方では、ゲルマン民族との戦闘に際し、西ローマ帝国側に傭兵として参加したりもしています。 ゲルマン民族の大移動 紀元376年、フン族に押された西ゴート族がドナウ河を渡りローマ帝国領へ侵入したのが始まりとされています。 それに続いて東ゴート族、アラン人、さらにはフン族を裏切ったフン人などが次々とローマ帝国領内に侵入していきました。 この帝国内を移動する軍・民混合となったゴート・アランの集団は後のローマ帝国に甚大な影響を与えることになります。 プレイアブルとして登場する各勢力 ササン朝ペルシア ササン朝ペルシアは長年ローマ帝国の仮想敵国的な存在であった大国パルティアを滅ぼし、紀元226年頃に台頭してきたペルシア系の国家です。 ゾロアスター教を国教にした最後の国であり、首都はパルティアと同じクテシフォン。 アケメネス朝ペルシャの再興を旗印にローマ帝国と幾度となく衝突しました。 過去にはシャプール一世が時のローマ皇帝を捕虜にするなどの大戦果を上げました。 西ゴート族 西ゴート族はゲルマン系の部族であり、紀元376年にダキアを経てドナウ河を渡り、ローマ帝国領内に侵入した部族です。 ゲルマン民族の大移動の先駆けとして知られていますが、もともとは傭兵や農耕に従事することを条件にローマ皇帝の許可を得た上での移住計画でした。 しかし予想を遥かに超えた数の西ゴート族がドナウ河を渡ったこと、それに乗じたアラン人や東ゴート族の侵入が重なりそれが後にゲルマン民族の大移動と呼ばれるようになりました。 西ゴート族は一向に改善されないローマ帝国領内での待遇を不満とし、武器を取り東ゴート、アラン人と連携して遂には紀元378年に、ハドリアノポリスの戦いでローマ帝国軍を打ち破りました。 これにより以後、西ゴート族は軍事力を保持したまま帝国内に居座る結果となり、後のローマ帝国の歴史に甚大な影響を与えることになりました。 西ゴート族はその後、フランス南部からイベリア半島にあたる地域を支配した西ゴート王国を建国することになります。 東ゴート族 東ゴート族は元々は現在のウクライナ、モルドバあたりに農耕定住民として定着していたゲルマン系の部族です。 紀元375~376年頃に東方から侵攻してきたフン族と衝突し、その際に王であるエルマナリクを殺され、フン族の支配下に入りました。 その際に難を逃れた多数の東ゴート族の民が西ゴート族のもとへ潰走したことでパニックを引き起こし、これがゲルマン民族の大移動のきっかけとなりました。 東ゴート族はその後、イタリア半島全域からパンノニアまでを支配する東ゴート王国を建国することになります。
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ヨーロッパ世界 ゲルマン人 - ケルト人 ゲルマン諸民族に分かれ、イギリス人の起源 語族はインド・ヨーロッパ語族 紀元前ヨーロッパにいた2つの文明のうちの北方の民族 諸民族は、ゴート族、ブルグンド族、バンダル族、ロンバルド族、フランク族 アングロ・サクソン族、ジュート族 375年のフン族の西進にとり、ゲルマン民族は続々と移動を始める アングロ族、サクソン族、ジュート族などはデンマークからブリテン島へ移動する 476年、西ローマ帝国を潰す アングロ・サクソン族 (Anglo-Saxons) アングロ族、サクソン族、ジュート族の3民族の総称 ローマ帝国がブリタニアを放棄するとデンマークにいたがブリテン島へ移住。 ブリテン島はアングルの地とよばれた アングルの地 ⇒ アングルランド ⇒ イングランド イングランド各地に王国を築き、アングロ・サクソン七王国と呼ばれた 東ゴート族 375年、フン族の西進により支配されたゲルマン諸民族の一つ。 その後、西ゴート族を押して逃げる 西ゴート族はドナウ川を越え、ローマ帝国領内に入った
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ヨーロッパ世界 西ヨーロッパ - 東ヨーロッパ 紀元前、ここには鉄器文明を持っていたケルト人、北方のゲルマン人がいた その後ローマによってケルト人は征服され、ケルト人はブリテン島やアイルランド島に渡った 4世紀後半にはゲルマン諸民族の大移動が始まった 375年に東方からアジア系遊牧民族のフン族がボルガ川を渡って押し寄せてくると、ゲルマン諸民族の一派の東ゴート族を支配 東ゴート族は西ゴート族を押し、西ゴート族はローマ帝国領内に進入 この移動により、ローマ帝国が混乱、国が真っ二つになる。 ⇒ 西ローマ帝国 東ローマ帝国 西ローマ帝国滅亡のお知らせ 476年、西ローマ帝国がゲルマン人により滅ぶ ここで西ヨーロッパ最大の国家はフランク王国とアングロ・サクソン七王国。 フランク王国の天下 西フランク王国の天下⇒のちのフランスである しばらくするとローマ教皇ウルバヌス2世の十字軍運動により、教皇権を確立されそうになるが、十字軍失敗によりむしろ失墜した ローマ・カトリック教会
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フン族 フン族(フンぞく, Hun)はヴォルガ川東方から現れた遊牧民の集団で、370年頃にヨーロッパへ移住して大帝国を築いた。彼らは恐らく300年程前に中国の北隣に居住していた匈奴の子孫であり[1]、テュルク系民族のユーラシア大陸にまたがる最初の拡張であろう。フン族の起源と言語(en)は数世紀にわたり議論の的になっている。現在の学説では彼らの指導者たちの名はテュルク諸語で表されているとされている。彼らの主な軍事技術は騎乗弓射である。 フン族は民族大移動を誘発し、西ローマ帝国崩壊の要因となった。フン族はアッティラの元で統一帝国を築いたが、453年に彼が死ぬとその翌年に帝国は瓦解した。同じ名称の後裔または後継者がおおよそ4世紀から6世紀に東ヨーロッパと中央アジアの一部に住んでいたと記録されている。フン族の末裔が8世紀前半にカフカスで記録されている。 フン族は4世紀に初めてヨーロッパに現れた。彼らは370年頃に黒海北方に到来した。フン族はヴォルガ川を越えてアラン族を攻撃して彼らを服従させた。歴史家ヨルダネスによるとバランベル(en)(ゴート族によって創作された架空の人物ではないかと疑われている)に率いられたフン族はグルツンギ(en)(東ゴート族)の集落を襲撃した。グルツンギ王エルマナリクは自殺し、甥の息子のヴィティメール(Vithimiris)が後を継いだ。376年にヴィティメールはフン族とアラン族との戦いで戦死した。この結果、東ゴート族の大半がフン族に服従した[7] 。ヴィティメールの息子のヴィデリック(Viderichus)はまだ幼なかったため、残った東ゴート族の難民軍の指揮権はアラテウス(en)とサフラスク(en)に委ねられた。難民はドニエストル川西方のテルヴィンギ(en)(西ゴート王国)の領域へ逃げ込み、それからローマ帝国領へ入った。 逃げ出した東ゴート族の一部に続いてフン族はアタナリック王(en)の西ゴート族の領土に入った。アタナリックはドニエストル川を越えて遠征軍を派遣したが、フン族はこの小部隊を避けて直接アタナリックを攻めた。ゴート族はカルパティア山脈へ後退した。ゴート族の難民たちはトラキアへそしてローマ駐留軍のいる安全地帯へ向かった。 395年、フン族は初めて東ローマ帝国へ大規模な攻撃をかけた[7]。フン族はトラキアを攻撃し、アルメニアを蹂躙してカッパドキアを却略した。彼らはシリアの一部に侵入してアンティオキアを脅かし、ユーフラテスの属州を通って押し寄せた。皇帝テオドシウス1世は軍隊を西方へ派遣しており、そのためフン族は抵抗を受けることなく暴れ回り、398年に宦官エウトロペ(en)がローマ人とゴート人の軍隊をかき集めて撃退して、ようやく平和を回復することに成功した。 一時的に東ローマ帝国から逸れた間、405年のラダガイスス(en)率いる蛮族の集団のイタリア侵攻や406年のヴァンダル族、スエビ族そしてアラン族のガリア侵入に証明されるようにフン族ははるか西方に移動したようである[7]。この時のフン族は一人の統治者元の一つの軍隊ではなかった。多数のフン族が東西ローマそしてゴート族の傭兵として雇われていた。ウルディン(個人名が知られる初めてのフン族[7])はフン族とアラン族の集団を率いてイタリアを守るためにラダガイススと戦った。ウルディンはドナウ川周辺の東ローマ領で騒乱を起こしていたゴート族を破り、400年から401年頃にゴート族のガイナス(en)の首を斬った。ガイナスの首は贈物と引き換えに東ローマへ与えられてコンスタンティノープルで晒された。 408年、東ローマはウルディンのフン族から再び圧力を感じ始めた。ウルディンはドナウ川を越えてモエシア属州のカストラ・マルティス要塞を攻略した。それから、ウルディンはトラキア一帯を略奪した。東ローマはウルディンを買収しようとしたが彼の要求額が大きすぎて失敗し、代わりに彼の部下たちを買収した。これによりウルディンの陣営から多数が脱走し、ローマ軍に大敗を喫して撤退を余儀なくされた[8][9]。それから程なく、ウルディンは死去している。 西ゴート王アラリック1世の義弟アタウルフは409年にジューリア・アルプス山脈南方でフン族の傭兵を雇っていたようである。彼らは皇帝ホノリウスの最高法官オリンピウスに雇われた別のフン族の小集団と対峙した。409年後半に西ローマ帝国はアラリックを防ぐためにイタリアとダルマチアに数千のフン族を駐留させ、このためアラリックはローマへ進軍する計画を放棄している。 410年頃にフン族はドナウ川中流域の平原を制圧した[10]。フン族は東ローマ帝国への侵入と略奪を繰り返し、このため東ローマ皇帝テオドシウス2世は430年頃にフン族へ毎年金350ポンドの貢納金を支払う条約を結んだ[11]。 一方で、フン族は西ローマ帝国の将軍アエティウス(少年時代にフン族の人質となった経験を持つ)の傭兵となって帝国内の内戦やゲルマン諸族との戦争に参加した。433年、フン族は西ローマ皇帝ウァレンティニアヌス3世の母后ガッラ・プラキディアとの内戦状態にあったアエティウスとの取引により、軍事力提供の見返りにパンノニア(とイリュリクムの一部)の支配を西ローマ帝国に認められた[12]。 フン族の外見 ゴート族出身の歴史家ヨルダネスはフン族について以下のように述べている。 「元々は沼沢地に住んでいた野蛮な種族で矮小で汚らしく、弱々しい部族であり、かろうじて人間で、そして他者をうんざりさせる言語だが、僅かに人間の言葉に似ている。フン族は恐怖によって敵を逃げ出させた。なぜなら彼らの浅黒い顔つきは恐ろしく、そして彼らは寧ろ巨大な不細工な塊とも言うべき顔、針の孔とも言うべき眼である。彼らの強健さはその野蛮な外見に現われており、惨たらしいことに彼らは赤子が生まれたその日に剣で男子の頬を切開し、彼らは母乳の滋養を受ける前に傷を耐えることを学ばねばならない。従って成年になってもその切痕のために鬚なしの醜態の相を示す。彼らの背丈は短く、身動きは素早く、機敏な騎手で、肩幅は広く、弓矢を用いるのに巧みであり、そして誇りを持って常に直立した頑丈な首を持っている。彼らは人間の形をしているが、野獣の獰猛さを有している。」[24] フン王アッティラと会見した東ローマ帝国のプリスクスの所伝を引用したヨルダネスは「アッティラは背が低く、胸は広く、巨大な顔を持ち、眼は小さくて落ちくぼみ、髯は薄く、鼻は低く、顔色は黒ずんでいた」と記しており、フンがモンゴル型の種族であったことを示している。 上述のフンがモンゴル型であることを裏付けるように、L・バルトゥチ、E・クレチマリク、V・レープツェルター等のフン・アヴァール墳墓発掘調査の解剖学的調査によって明らかとなる。調査の結果、墳墓からはアヴァールと思われるブリヤート系モンゴロイド人骨の他に、フンの支配層と思われるツングース系の人骨が発見された。これによりフン族の平均身長は男子が164センチ、女子が153センチで、毛髪は黒色で直毛であることがわかった。
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アラリックイッセイ(アラリック1世) 西ゴート族の国王の一。 西ゴート族の最初の王。 関連: ロゼステス (父) テオドリックイッセイ (テオドリック1世、息子)