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日本カメラ・アサヒカメラ 文統ある写真雑誌。昔は猿のようにかじりついて読んでいた。露出の説明など初心者に優しい雑誌であったが、今となっては時代の流れもありデジタルに関する記事が圧倒的に多い。ページ終盤にあるカメラ屋の中古情報がカメヲタ心をくすぐり、「このカメラ、レンズはどうなんだろうか。お買い得ではないのか」ということになってしまう素。
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439 名無CCDさん@画素いっぱい (アウアウ Sa35-4wno [182.251.246.19])2016/07/18(月) 21 50 22.03 ID R6HZMBGsa 手元にアサヒカメラ2014年2月号があり、この号のニューフェース診断室No.672はオリンパスE-M1が評価機であった。 著作権に絡むかもしれないからページの画像データはアップしないが、図書館や古本屋でも確認することは可能だろうから、 ここには文言しか記載しないが、p.225にはこのような記載がある。 ※『』は俺の追記(強調) 露出:全体的にどの測定値も安定した露出制御性能 ●ISO感度 ISO感度を200にして、計8通りの組み合わせで、露出時間を変えて撮影したときの露光量と記録画面の明るさの関係を測定した。 それぞれの『実効感度は約240で公称値より約1/4段高い。』(後略) ●諧調再現性 (前略)『像面露光量をCIPA企画(ママ)に基づき、計算により求めている』ので、 前項の撮像素子の感度測定で得られた値より、ISO感度値が少し高い値を示したが、特性曲線の形状は前項と似た形となった。 ●露出制御 自動露出の制御性能 (前略)全体的に基準値より約1/4~1/3段露出不足だが、『実効感度が約1/4段高いことを考慮するとほぼ適正レベル』となり問題はない。 上記の通り、アサヒカメラにおいてはCIPA基準に基づいてカメラからの出力画像(8bitRGB)で測定した結果、 このカメラの「実効感度」は200に対し約1/4段高い、という結果とのことだ。 俺は前スレ899で「DxOの実効感度、という言葉も誤解のもとだから使用には注意をお願いする。」と書いた。 また前スレ978で「デジタル時代になって実効感度って言葉が曖昧になってる。 」 「結果としてカメラまたは純正現像ソフトが出力する画像(増感済み)に対してCIPAの規定で測定した数字が実効感度と言えなくもないが」とも書いた。 アサヒカメラも認めている通り(というかそれがやはり正しいのだろうが)、あくまで実効感度は最終画像に対して測定するものであるということだ。 440 名無CCDさん@画素いっぱい (アウアウ Sa35-4wno [182.251.246.19])2016/07/18(月) 21 52 22.02 ID R6HZMBGsa では、最終画像においていわゆるISO感度の許される範囲の最下限を狙ってSSを規定からぎりぎり遅くしている可能性は、 とも考え、SSの制御精度はどうかと思ったが、これに関しては直球の記載はない。 但し同じアサヒカメラの記載に以下のようなものがある。 シャッター ●動体静止効果 (前略)各部位の指標の軌跡長は、1/2000秒以下では低速になるに従い順にほぼ倍増しているが、 1/4000秒時は1/2000秒時の1/2より長く、さらに1/8000秒時は1/4000秒時の1/2よりかなり長くなっている。(後略) 直接の回答ではないが、1/2000秒以上では精度に懸念は示されていないだろう。 以上から、全スレで指摘した通り、あくまでカメラのISO感度は最終出力に対して評価されるものであり、 そのカメラの実効感度も、これに対して評価される、ということをアサヒカメラは言及している。 E-M1のISO200は、実効感度240である、という評価をされているので、 少なくともE-M1の「実効感度」が1段低い、等の発言は、根拠のないものといえるだろう。 途中のRAWファイルの数値をもって「粉飾」というのはあたらない、ということだ。 そして何度も書いているがDxOもそのように言っている。 not cheatingと。 なぜマイクロフォーサーズは短命で終わったか 102 http //echo.2ch.net/test/read.cgi/dcamera/1468403878/
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1930年3月号 1933年8月号、1933年9月号、1933年10月号、1933年11月号、1933年12月号 1934年1月号、1934年3月号 1936年1月号、1936年4月号 1936年7月号(その1)、1936年7月号(その2)、1936年8月号(その1)、1936年8月号(その2) 1936年9月号(その1)、1936年9月号(その2)、1936年10月号(その1)、1936年10月号(その2) 1936年11月号(その1) 1937年4月号、1937年5月号 1937年7月号(その1)、1937年7月号(その2)、1937年9月号、1937年10月号 1938年6月号、1938年12月号 1939年2月号、1939年3月号、1939年8月号 発行年 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 1935 ? ? ? ? ? ? o ? ? o o o 1936 o o o o o o o o o o o o 1937 o x o o o o ? o o ? ? x 1938 o x x o o o o ? ? ? ? ? 1939 ? o o ? ? ? ? o ? ? ? ? 1940 ? ? ? ? ? ? ? ? x ? x ? 1941 ? ? ? ? x ? ? ? x ? ? ? 1942 x 未出版:- 未確認:? 掲載無:x 掲載有:o
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ファーストカメラワークス時代(戦前) 「セミ・ファーストの使い方」1940年 株式会社栗林写真機械製作所時代 1951年版カメラ年鑑:カロロン 1951年11月20日:カロロン、ペトリー、カロロンS 1952年版カメラ年鑑:カロロン、ペトリー、カロロンS 1954年版アサヒカメラ年鑑:ペトリーフレックス、カロロンRF 1955年版カメラ年鑑:ペトリスーパーV、ペトリRF、ペトリスーパー 栗林写真工業株式会社時代 1956年版カメラ年鑑:ペトリ35F2.8、ペトリRF120 1957年版カメラ年鑑:ペトリ35F2.8、ペトリオートメイト 全連通報1958年3月号:ペトリF2 全連通報1958年3月号(?):ペトリF2 1959年版カメラ年鑑:ペトリ2.8 1960年版カメラ年鑑:ペトリペンタ 1961年版カメラ年鑑:ペトリ1.9、ペトリEB、ペトリハーフ 1961年コンシューマーno.1:ペトリペンタV2、ペトリ7、ペトリ7 1.8 1962年版カメラ年鑑:ペトリペンタV2、ペトリ7 ペトリカメラ株式会社時代 1963年版カメラ年鑑:ペトリ7、ペトリハーフ7、ペトリプレスト、ペトリタッチ、ペトリ8 1964年版カメラ年鑑:ペトリ7S、ペトリハーフ7、ペトリペンタV2 1965年版カメラ年鑑:ペトリペンタV2、ペトリペンタV3、ペトリフレックス7 1966年版カメラ年鑑:ペトリV3フレックス、ペトリV6、ペトリフレックス7、ペトリオートラピッド 1967年版カメラ年鑑:V6F2、FT 1968年版カメラ年鑑:V6F2、FT 1969年版カメラ年鑑:V6F1.8、カラー35 1970年版カメラ年鑑:FT、V6F1.8、カラー35 アサヒカメラ1970年12月号:V6II、FTEE 1971年版カメラ年鑑:V6、V6II、FTEE,FT ペトリ7S広告(時代不明)
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カメラ・ビデオ雑誌 アサヒカメラ 840円 毎月20日 朝日新聞出版社 CAPA 730円 毎月20日 学研出版 日本カメラ 920円 毎月20日 日本カメラ社 フォトコン 1260円 毎月20日 日本写真企画 カメラマン 600円 毎月20日 モーターマガジン社 デジタルカメラマガジン 1100円 毎月20日 インプレスジャパン フォトテクニックデジタル 1100円 毎月20日 玄光社 ビデオサロン 1080円 毎月20日 玄光社
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※最近、スマートフォンからの閲覧だと画像が正しく表示されない様です。パソコンでの閲覧かスマートフォンならPCモードをお勧め致します。 ※内容は新事実が判明する都度書き換わります。今まで事実としていた事が突然変更されるかもしれませんのでご了承下さい。 コニカ 1型、2型、3型は、広義で語れば全て同じカメラの発展史ともいえます。 改良を進めるうちにコニカ 1型のフレームに限界が生じ、独自機構のボディレリーズを内蔵した2型が登場しました。 勿論、復旧に追われる様にスタートしたコニカ型時代から、会社に新型を開発出来るだけの余力が生まれた時代への以降がバックボーンとしてあります。 それはデザインにも反映され、優美な意匠は国産カメラ史においても高いレベルにあると思っています。 また2A発売にあたり、Tessarからの発展だった小西六のレンズがダブルガウス型へとスイッチします。 私個人の意見ですが使うコニカを選ばれるなら、この2型をチョイスされる事をお勧め致します。 1. コニカ 2型 現在、雑誌やウェブサイト等のメディアにおいてこのカメラの名称は「コニカ 2型」、「コニカ II型」、「コニカ II」といった表記で目にするが、ここでは「2型」を指す際、引用を除き判別が容易なアラビア数字表記の「2型」で統一する。(引用部分は原文のままとしている) 確定情報 コニカ 2型の発売時期には諸説あって、未だ確定するに至っていない為、各資料による発売時期掲載とそれによる推測のみを以下に記載している。 公式には1951年(昭和26年)12月に発売とされている。[出典1-13, 出典1-14, コニカミノルタ年表.] 一方、フォトアート臨時増刊 35ミリ・カメラ全書においては、「1951年10月には...(中略)...設計され発売されて」と書かれている。[出典1-4.] しかし、1951年6月号のアサヒカメラ[出典1-1.]では、7月に発売すると書かれている。 [出典1-1.]アサヒカメラ1951年6月号 ところが、この記事を掲載したアサヒカメラにおいて、コニカ 2型の発売広告が掲載されたのは、翌1952年2月号であった。 [出典1-2.]アサヒカメラ1952年2月号 何らかの理由で発売日が半年以上も先送りされているのである。 月刊誌という事で実際の発売時期は多少前倒しだとしても、流石に2月号を1951年中に発売するとは考え難い。 従って、実際には1952年初頭発売と考える方が自然であろう。 さすればメーカー公称の1951年12月を店頭発売ではなく工場出荷開始の記録という解釈も成り立つ。 また上資料から、1951年7月に発売されるという情報は輸出用だった可能性が考えられる。 根拠は、前後の機種であるコニカ 1型とコニカ 3型のいずれもが、アメリカ向け輸出を優先的に行っているからだ。 またコニカ 2型の初期には、底に Made in occupide Japan の刻印が施された個体が見られる[実機確認.]ので、輸出優先だった可能性はある。 しかし、刻印義務が1952年4月28日のサンフランシスコ講和条約(調印は1951年9月8日)までと続いていたとすれば、刻印の有無だけで証明出来るものでもない。 ただ、1951年5月16日には日米経済協力に関する「マーカット声明」の発表があり、[出典1-1.]が編集された時期の前後と重なる。 小西六がこの声明を受けてコニカ 2型の販売価格を見直し、(45,000円 35,900円)外貨取得へ動いた可能性は否定出来ない。[出典1-15, 出典1-16.] 残念ながら現時点では、初期輸出説を示す有力な資料が無い為に調査中であり、これらの話はあくまで仮説と思って頂きたい。(未確定情報の項にも記載) [出典1-5.]アメリカでの広告 さて、コニカ 2型はコニカ 1型のボディレリーズが無いという欠点を克服する為、沈胴を引伸し方式からダブルヘリコイド方式に改め、シャッターを一般的なレリーズボタンと連動する様に設計し直したのものである。[出典1-14.][実機確認] [出典1-3.] コニカ 2型内部透視図 このダブルヘリコイドによる沈胴機構は、鏡胴付け根のボディ側に低い突起を設けてあって、フォーカスの部を最短距離位置まで回転させた時これに当たるのだが、ここでノッチを引き上げると突起を乗り越えて更に回転、沈胴となる。 一連の動作角を限定してやる事でレリーズの連動機構が組み込めた。[実機確認] 上図の通り、レリーズボタンからタイム機構を通過し、レンズシャッターのステーにアクセスする。 このレリーズには巻上げ後だけ動作する二重撮影防止機構も設けられた[出典1-13, 出典1-14.]が、従来のレンズレリーズも残されている。[出典1-8.][実機確認] これは意図的な多重露光を狙った際の為である。[出典1-8.] 尚二重撮影防止機構については1956年(昭和31年)に特許が申請されている。(公知は1959年) [出典1-12.]実公昭34-020855 レリーズ安全装置 より二重撮影防止機構 ボディデザインが大幅変更されるに至り、1型では付いていなかった各社共通のアクセサリーシューが実装された。[実機確認] しかしこの最初期型は、Hexanon 50mm F2.8、シャッターもコニラピッド-Sのまま(ただし前面の切替ダイヤルでバルブ撮影かタイム撮影かを選択可能で T, B, 1, 2, 5, 10, 25, 50, 100, 250, 500 )であり、描写性能においては同レンズを搭載した1型と差は無い。[出典1-14.] セルフコッキング、巻上げノブ、巻戻しレバーはまだ付いておらず、1型時代からのままである。[出典1-14.][実機確認] 発売価格は当初の記事と異なり35,900円だった。 コニカ 2型は市場でも受け入れられ、1955年(昭和30年)5月には生産が終了したコニカ 1型に換わる廉価仕様として、新たにタイム撮影を省略した仕様を投入した。[出典1-6, 出典1-8, コニカミノルタ年表.] これが「コニカ 2B型」と呼ばれるカメラである。 タイム撮影を省略した為、その部分にはロゴが刻印された美しい盲板がはめ込まれた。 発売直後に執筆されたであろう当時、アサヒカメラの記事では以下の様に書いている。[出典1-6.] このカメラはボディ関係はII型、レンズとシャッターはI型となっており、ちょうどII型とI型のあいのこだが、I型とくらべれば、二重露出防止装置、ボディレリーズ、直進式ヘリコイド焦点機構など断然進歩していて価格はわずか二千円しか開きがないから、もはやI型の存在は意味ないものとなったといってよいだろう。(価格二七、000円マガジンなし) この記事でひとつ修正しておきたいのは、まるでコニカ 1型が直進式ヘリコイドでない様な記述をしているが、実際にはコニカ 1型も直進式ヘリコイドであるから、これはII型になって採用されたダブルヘリコイドの間違いと思われる。 そのダブルヘリコイドによる沈胴機構に関しては、コニカ 2型からそのまま引き継いでいる。 レンズはHexar 50mm F3.5とF2.8の2種が確認されている。[出典1-14.][実機確認.] 以上の事から、描写性能は1950年頃のコニカ 1型と同じレベルである。 発売価格はHexar 50mm F2.8搭載モデルが31,500円、Hexar 50mm F3.5搭載モデルが27,000円に設定された。 同時期のコニカ 1型の価格がHexanon 50mm F2.8仕様が30,000円、Hexar 50mm F3.5仕様が25,000円であり、先のアサヒカメラで書かれていた事(F3.5仕様)と整合している。 この頃アサヒカメラに「国産MX接点付きシャッター誕生」という小さな記事が掲載される。 記事によるとドイツのシンクロコンバーやプロンターシャッターに組み込まれたMX切替接点は圧倒的優位性があったが、特許を広範囲で取得している関係で構造を変更しない限り国産化は不可能であったのであるが、困難を乗越え9月〜10月には国産品が登場するのではないかと書かれていた。 中でもコンバー型の精工舎と小西六ではドイツ製以上のタイムラグの自動変換機構を発明し特許を申請とある。 セイコーシャMXとコニラピッドMFXである。(自動変換のアプローチや構造は異なる)[出典1-7.] この新型シャッターは当然コニカ 2型への搭載が計画され、翌1956年(昭和31年)2月にはコニカ 2型のレンズを従来のHexanon 50mm F2.8のままシャッターのみをコニラピット-MFXに換装した仕様が販売された。[出典1-14.] 発売経緯は明らかにされていないが、後年にコニカが発行した資料には「コニカ 2F型」としての記述が確認出来る。 しかし当時の広告を見るとMX接点付きは「コニカ II-F型」と書かれている。[出典1-9, 出典1-10, 出典1-11.] [出典1-9, 出典1-10, 出典1-11.]カメラ毎日1956年11月号, 12月号, 1957年1月号 イエナ精光株式会社広告(内容同一) 下の方に「コニカ IIA」とこちらはハイフンなしで記載されているのと「IIB-m」にもちゃんとハイフンがあるので、「II-F」とハイフンありが正しいのかもしれない。 が、「コニカ IIA」のレンズ銘を見ると「ヘキサー F2」と誤植されているので広告の精度そのものが怪しいといえる。 発売価格は32,000円。 同時期(1956年2月)[出典1-13, 出典1-14.](3月発売説がある[ コニカミノルタ年表.])にレンズをDouble Gauss型のHexanon 48mm F2に換装、シャッターもコニラピット-MFXになりフルシンクロ化された改良型を35,000円で発売、これが所謂コニカ 2A型である。[出典1-11, 出典1-13, 出典1-14.] これにより明確に上位機種と下位機種に分けられた。 軍艦の刻印が IIA となった。 更に翌1957年(昭和32年)2月[ コニカミノルタ年表.]には、レンズを若干広角側へ寄せた仕様としてコニカ 2B-m型を発売した。[出典1-11, 出典1-13, 出典1-14.](9月発売[出典1-13, 出典1-14.]説がある) 名前が示す通り、実質コニカ 2B型の後続機でタイム撮影は省略され、やはり美しい盲板がタイム切替ノブの位置にはめ込まれている。 レンズはHexar 45mm F3.5を搭載し、セイコーシャ製のシャッターを使用している。 発売価格は22,500円。 未確定情報 コニカ 2型は発表時期と実際に販売された時期に大きな差があり、海外輸出が行われた可能性があるが根拠が明確となっていない。 コニカ 2型の販売台数は、初期型が43000台、2B型 F2.8付が18,000台、2B型 F3.5付23,000台、2A型が15,000台、2B-m型が20,000台、2F型が2,400台とされるが、勿論これは正式な数字ではない。 コニカ 2B-mはレンズが精工舎製OEMと言われている。 資料 [出典1-1.] (1951.6). 新・製・品・メ・モ アサヒカメラ, 6月号. PP.101. [出典1-2.] (1952.2). 巻頭広告 アサヒカメラ, 2月号. 表紙裏 [出典1-3.] 小西六写真工業株式会社 技術部. [出典1-4.] (1953.9). コニカの話 フォトアート臨時増刊 35ミリ・カメラ全書 研光社, PP.143. [出典1-5.] (1953). PHOTOGRAPHY ANNUAL USA, PP.281. [出典1-6.] (1955.7). コニカIIB Konica IIB 写真界ニュース アサヒカメラ, 7月号. PP.189-190. [出典1-7.] (1955.8). 国産MX接点付シャッター誕生 一般 国内 写真界ニュース アサヒカメラ, 8月号. PP.140. [出典1-8.] 松田二三男(1955). コニカ II型 国産35ミリ カメラ年鑑 株式会社日本カメラ社, 1955年版. PP.82-83. [出典1-9.] (1956.11). イエナ精光株式会社広告 カメラ毎日 毎日新聞社, 11月号. [出典1-10.] (1956.11). イエナ精光株式会社広告 カメラ毎日 毎日新聞社, 12月号. [出典1-11.] (1957.1). イエナ精光株式会社広告 カメラ毎日 毎日新聞社, 1月号. PP.216. [出典1-12.] 三木旺(1959). レリーズ安全装置 実公昭34-020855. [出典1-13.] 亀井武(1973). カメラブームの到来 写真とともに百年 小西六写真工業株式会社, PP.233-260. [出典1-14.] 宮崎繁幹(2003). 35mmレンズシャッター・カメラ コニカI型 クラシックカメラ選書-28 コニカカメラの50年 株式会社朝日ソノラマ, PP.26-30. [出典1-15.] 高坂正堯 佐古丞 安部文司(1995). 1951年(昭和26年) 戦後日米関係年表 PHP研究所, PP.33. [出典1-16.] 奥和義(2011.12). 3.戦後復興期の貿易(1945年~1950年代初頭) 戦時、戦後復興期の日本貿易-1937年~1955年- 関西大学学術リポジトリ 関西大学商学論集, 第56巻第3号. PP.27-37. 2. 全コニカ 2型に関連すること 2-1. オプション類 レンズフード 初期のHexar 50mm F3.5及び、Hexanon 50mm F2.8は、コニカ 1型とレンズ系及びフィルター径が内径32mmと同一な為、全く同じものが装着可能。 レンズがF2になると内径が37mmまで拡大された角型フードがある。 レンズキャップ 初期のHexar 50mm F3.5及び、Hexanon 50mm F2.8は、コニカ 1型とレンズ系及びフィルター径が同一な為、全く同じものが装着可能であるが、2B型と2B-m型に限っては専用のキャップがセットされていた。 レンズがF2になるとフィルター径が大きくなったものの、デザインをそのままにサイズのみ大きくしたものが装着された。 レンズフィルター レンズキャップ同様に前期後期でフィルター径は異なるものの、ラインナップは変わらなかった。 フードケース コニカ 1型と同様なケースが用いられたが、レンズ径の拡大と共にケースも大きな物が用意された。 オートアップ オートアップもフィルターに装着する為、2種類が用意された。 露出計 装着するとレンズ縦同一上にセレンが来る様にデザインされた専用品が用意された。 これはセコニック製のオネストLC-1型がベースとなっているが、正面マルチフィルターに関してはLC-2型の形状になっている。 また本体にKonicaの刻印が入り、純正品として供給されている。[出典2-1.] 資料 [出典2-1.] (1955.6). セコニック露出計広告 アサヒカメラ, 6月号. PP.44. 3. コニカ 2型 試作機 確定情報 1954年(昭和29年)10月~11月に展示公開された。[出典3-3, 出典3-4.] 交換可能なレンズは、Hexanon 50mm F1.9と、Tele-Hexanon 85mm F3.5。 [出典3-1.] Hexanon 50mm F1.9装着状態 後年のオリンパスエースに代表されるシャッターユニットの前側のみを交換する方式。[出典3-1, 出典3-2.] 交換側を取り外した際、シャッターの後ろに残るレンズの枚数は1枚である。[出典3-1, 出典3-2.] レンズシャッター方式を採用した理由として、岩間氏は[出典3-2.]の中で以下の様に書き記している。 特に幕式シャッターを採用しなかった理由は、幕式シャッターの効率の不安定や像の歪み、光量ムラなどの欠点を避けるためのもの許りでなく、現在の馴染み深いコニカをあくまで生かし、レンズ交換さえ可能ならば、敢て幕式シャッターを採用せずに、シャッター速度の精巧さと安定性の望めるレンズシャッター、コニラピッドSにした方が良いとの理由ではなかろうか?ことさらにストロボの普及化の気運や、フルシンクロが要求される現在では絶対にレンズシャッターが優位であるから…… ただし、シャッターは通常のコニラピッド-S等とは異なる専用品が作られた。[出典3-1.] [出典3-1.] Tele-Hexanon 80mm F3.5装着状態 交換レンズのHexanon 50mm F1.9は、ライカ用LTM(ライカスレッドマウント)交換レンズと光学的に共通している。[出典3-1.] [出典3-4.] 未確定情報 資料 [出典3-1.] 三木旺(1955). 超大口径レンズ ヘキサノン F1.2レンズ 小西六の新レンズ 写真工業 写真工業出版社, 2月号. PP.107-110. [出典3-2.] 岩間倶久(1955.3). 交換レンズのつくコニカ 写真工業 写真工業出版社, 4月号. PP.278-280. [出典3-3.] 亀井武(1973). カメラブームの到来 写真とともに百年 小西六写真工業株式会社, PP.233-260. [出典3-4.] 宮崎繁幹(2003). 35mmレンズシャッター・カメラ コニカI型 クラシックカメラ選書-28 コニカカメラの50年 株式会社朝日ソノラマ, PP.26-30.
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スピードレフレックス 栗林のカメラ第一号として、スピードレフレックスが発売されたのは1926年(大正15年)と考えられる。 この年に発行された雑誌、カメラ(ARS)にスピードレフレックスの新発売を示す広告が掲載されている。 カメラ(ARS) 1926年3月号広告 カメラ(ARS) 1926年4月号広告 カメラ(ARS) 1926年5月号広告 (以上の広告は国立国会図書館所蔵資料から許可を得て転載した:国図利1401065-7-28号) 三月の広告では「ESヂュニオルレフレックス」という名称のカメラが三月中旬にできると予告されている。 四月の広告ではこのカメラが新発売され、五月の広告でカメラの名称が「スピードレフレックス」に変更されている。 ペトリの歴史ではスピードレフレックスは1919年に製作と記されることが多いが、これはカメラの発売までに かなりの時間を要したことを示すか、あるいは記録の間違いであるとも考えられる。 スピードレフレックスを発売したのは神田の三栄堂本店であった。店主の二川栄介は1928年に「写真機全集」を出版している。 この本の中に栗林製のカメラの広告がいくつか掲載されているので、当時の雑誌広告とあわせて紹介する。 「写真機全集」(昭和3年)のダウンロードはこちら ファーストカメラ (二川栄介著 写真機全集 1928年広告) 広告の下部に「第一写真工業社」と記載がある。栗林製作所との関係は現在のところわかっていないが、 翌年のアサヒカメラに掲載された同名のカメラの広告にはFirst Camera Works の記載がある。 (アサヒカメラ1929年5月号広告:写真提供ジャンク大帝様) ミクニカメラ (二川栄介著 写真機全集 1928年広告) 広告の下部に "Tokyo Minagawa"と記載がある。翌年のアサヒカメラに掲載されたこのカメラの広告には 「ミクニカメラ製造元 皆川カメラ店」の記載がある。皆川カメラ店(皆川商店)は後に栗林製作所の カメラを「ファーストカメラワークス」のブランド名で販売している。 (アサヒカメラ1929年5月号広告:写真提供ジャンク大帝様) この広告には東京博覧会の受賞とメダルの写真が載せられている。これは1928年に開かれた大礼記念国産振興東京博覧会で 写真機(写真暗箱)では三栄堂(栗林)と小西六が優良国産賞を受領していることが当時の文献からわかる。 参考:http //kindai.ndl.go.jp/info ndljp/pid/1224945/419 (国産振興東京博覧会審査報告 東京商工会議所主催 大礼記念 1929年) ルビースハンドカメラの謎 (二川栄介著 写真機全集 1928年広告) ところが、芙蓉堂のホトデルックス、ルビースハンドカメラの広告にも東京博覧会受賞の記載がある。 これらのカメラも栗林製のカメラである可能性があるが、現在のところ情報不十分である。 Baird著の Collector s Guide to Kuribayashi/Petri Cameras の栗林製カメラのリストにはこれらのカメラは含まれていない。 1958年10月のPHOTO35という雑誌には栗林庸夫氏(当時常務)の話として、栗林が芙蓉堂にカメラを提供していたと記載されている。 イーグルハンドカメラ カメラ(ARS) 1930年3月号広告 (上記の広告は国立国会図書館所蔵資料から許可を得て転載した:国図利1401065-7-63号) この広告は「栗林製作所」の記載がある点で注目できる。 神田三栄堂店主、二川栄介は昭和4年に36歳で死去しており、この影響かもしれない。 (夜明けまえ知られざる日本写真開拓史 1(関東編研究報告):http //rnavi.ndl.go.jp/books/2009/04/000009088083.phpに記載:ハルカさんより情報提供) カメラ(ARS)1930年6月号ではレンズにメーヤーアナスティグマットF4.5、シャッターにコンパー、イソプール付モデルが追加されるとあった。 追記(2015.6.19) 全日本クラシックカメラクラブ(AJCC)の2015年5月の研究会で、小林昭夫会員により栗林の乾板カメラの発売年を検証した研究講演が行われた。 多くのカメラの発売年が訂正されているのでぜひ参照されたい。 http //www.ajcc.gr.jp/sub1.114.html(AJCCによる2015年5月の研究会の報告) 小林会員の講演のpdf リンク許可を戴いたAJCCと小林会員のご厚意に感謝します。 (文責:2chペトリスレ264 情報募集中!)
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https://w.atwiki.jp/petri/pages/314.html
Camera Club (ARS 1936-1940) アサヒカメラ(朝日新聞社:1926-) 写真サロン(玄光社:1933-1940) カメラレポート(無三四堂本店:1933-1942?)