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登録日:1221/05/14 Wed 12 21 03…ではなく、2022/12/27 Tue 02 24 24 更新日:2024/04/12 Fri 15 47 41NEW! 所要時間:約 50 分で読めます ▽タグ一覧 1221年 その時歴史が動いた ターニングポイント 中世 内乱 勉強になる項目 北条政子 北条義時 後鳥羽上皇 戦争 所要時間30分以上の項目 承久の乱 日本史 朝廷 武士 歴史 鎌倉幕府 鎌倉時代 鎌倉殿の13人 革命 1221年(ひとにふいうち) 承久(じょうきゅう)の乱 『承久の乱』とは、1221年(承久3年)に日本国で起きた騒乱の名称。 時の最高権力者・後鳥羽上皇が、当時東国一園を支配していた武家政権『鎌倉幕府』の執権・北条義時追討の命を下すも、 鎌倉幕府の初代将軍・頼朝の妻であった北条政子の演説によって結束した幕府軍の反撃を受け、敗れ去った事変である。 この勝利によって鎌倉幕府、ひいては武家がその権力を強め、以降朝廷に代わって約650年に亘り日本の政治を取り仕切っていく事となる。 なお歴史用語的には「身分が下の者が時の権力者に反乱を起こしたが、権力者側が勝った」(*1)事変を「乱」と呼ぶことが多く、 逆に、「下の者が反乱に勝ち、権力者が失墜した」戦乱を「変」と呼ぶことが多い。 「多い」という表現を多用したように例外な使い方をされることもあるが、 この戦乱の場合、敗者となった後鳥羽上皇の方が立場が上なのは言うまでもないので、 「『承久の乱』ではなく『承久の変』では?」という声もあり、実際そう書かれることもある。 歴史の解釈や呼称は日進月歩であり、今後この乱の呼び名が変わる可能性はあり得るがひとまずこの項目では承久の乱で統一する。 △メニュー 項目変更 -アニヲタWiki- そんな『承久の乱』であるが、日本史の教科書では数行ないし1ページ程度の扱いであることが多く、 大多数の学生にとっては「鎌倉幕府が権力地盤を固めた」というだけの出来事、 下手をすればテスト勉強に向けた年号の語呂合わせの方が印象に強い事件と言えるだろう。 だが実際は、当時の日本における既成概念・統治体制を大きく変容させる契機となった戦乱であり、後の歴史に絶大な影響をもたらした転換点である。 ◆当時の背景 ~武家政権と治天の君~ 1185年(所説あり)に創建された、日本史上初の単独武家政権「鎌倉幕府(*2)」。 創設者である源(みなもとの) 頼朝(よりとも)はその後、1192年に朝廷から「征夷大将軍」の任官を受け、統治機構の更なる拡充を図るのだが、 これは同時に「朝廷が直接介在しない政治・統治体制の誕生(*3)」という側面があった。 鎌倉幕府はその名の通り鎌倉、すなわち関東(当時は『坂東』と呼ばれていた)一帯を拠点とし、加えて東国(現在の中部および東北地方)を勢力圏に置いていたのだが、 「征夷大将軍」という役職の性質上(*4)、頼朝は日本全国の武将たちを統治する事が朝廷より認められた立場にあった。 加えて、1185年の時点で頼朝は朝廷から「守護・地頭(*5)」の全国設置を認められており、ここに「征夷大将軍」の役職・権限が合わさった事で、 頼朝は勢力圏内における軍事・警察権と土地の支配・行政権、そして徴税事務の権利を獲得。 こうして頼朝、そして「鎌倉」は関東及び東国における支配権を朝廷から認められるに至ったのだが、 その結果、勢力下にある武士・豪族こと「御家人」への軍事・政治的指示や各種褒章を出すのは鎌倉の将軍、通称「鎌倉殿」の役割となった。 当然と言えば当然の話なのだが、これは同時に従来の、 朝廷(天皇・上皇)・公家 ↓ 武士・豪族 という統治・指示の流れに、新たに「鎌倉殿」という存在が割って入る(*6)格好となり、 武士たちにとっては従来の朝廷よりも、直接的な統治者となる鎌倉殿の重要度が大きく増す形になっていった。 早い話、「朝廷に対して仕える」というより「鎌倉殿に対して仕える」という認識が、関東及び東国では強く広まる形になった。 一方京においては、従来の統治機構たる朝廷、そしてその最高位として天皇および上皇が君臨しており、 加えて物理的な距離の問題も手伝って、鎌倉殿の影響力も京周辺及び西国には届かず、引き続き朝廷の意向が重視される形にあった。 つまり、鎌倉殿の影響力が強まるにつれ、西と東で事実上統治機構が二つ存在する格好になっていったのだ。 この状況は、朝廷――特に当時の最高権力者たる「治天の君」(*7)後鳥羽(ごとば)上皇にとっては何とも芳しくない事態であった。 特に荘園に対して地頭が置かれて支配構造が変化した結果、朝廷の収入源たる年貢の徴収に支障をきたすようになるなど、地味に痛い問題が噴出するようになっていた。 そもそも「鎌倉殿」が成立したこの時代、朝廷の権威は武家の一門たる平家・源氏の隆盛に呼応するかの如く落ち始めており、後鳥羽上皇はその回復・復権に気炎を上げていた。 補足:朝廷、右肩下がりの四方山話 前提の話として、古代からこっち、日の本における社会構造は(めっさ大雑把に言うと) 「一番高い地位に天皇・上皇が立つ」 「その下で公家が『朝廷』という政治機構を取り仕切る」 「その朝廷の決定に従い、日本の各地を武士が管理し、必要に応じて軍事力を行使する」 という体制・固定観念が定着していた。 逆に言えば当時の武士階級、特に京から離れた地域に拠点を置く武士・豪族は、居住地域の管理を公家や朝廷から「命じられている」ないし「住む事を許されている」立場にすぎず、 その立ち位置は決して高くない……というかぶっちゃけ「下から数えた方が早い」序列にあった。 が、平安時代末期、「保元の乱」(*8)あたりから話が変わり出す。 「保元の乱」と続く「平治の乱」(*9)という二つの政変は、どちらも天皇・上皇や公家が武士階級の武力を借りることで解決した。 その結果平(たいらの) 清盛(きよもり)率いる平家一門が、「朝廷の政治」に武家として初めて食い込み出したのだ。 元々武家の中でも最上位クラスの格式を持っていた事を活かし、清盛は数々の権謀と闘争の末に朝廷を事実上掌握。 その勢いは当時の最高権力者・後(ご)白河(しらかわ)法皇(ほうおう)すら押さえ込む程だったが、朝廷や公家にとっては、自分達の権威を貶めるが如き所業。 それは各地の武士――特に平家の台頭によって割りを食う形になった源氏やその麾下にとっても同様だった。 結果、後白河法皇を始め、朝廷はあの手この手を使って平家を追いやるべく動き出し、反平家を標榜する各地の武士・豪族もこれに同調したのだが、 そうした「反平家勢力」たる武士達を最終的にまとめ上げたのが頼朝だった。 朝廷から見れば、厄介な平家を討つに足る器――「源氏の嫡流」という頼朝の出自は最適であり、 加えて清盛の様に朝廷の政治にそこまで首を突っ込めない立場(*10)と、正にうってつけ。 後白河法皇をはじめ、朝廷は頼朝に「朝廷を蔑ろにした平家を討伐せよ」という命令――大義名分を与え、平家を滅亡させるに至ったのだ。 が。 一方の頼朝も、ただ朝廷に利用されるだけの扱いに甘んじるワケがなかった。 頼朝は「平家討伐」という功績や朝廷からの各種要望に応えるのと引き換えに、様々な権限・権利を合法的に(●●●●)自身へ移譲・承認させていったのだ。 これは平家……というか平清盛の手法とは真逆に近いもの。 清盛は時に強権的とも取れる手法で朝廷の権力闘争に勝ち抜き、掌握してきた。 だがそれ故に反発も盛大であり、加えてそれらの強権発動が「清盛個人の意向・力」によるところが強すぎた結果、 彼が病没してしまったのをきっかけに、平家は一転して追い込まれる事になった。 しかし頼朝は、あくまで現行の制度を活用したり、一定の大義名分を背景にした上で自身に有利な方向へ権限が動くように事を図った。 しかも朝廷内部には深く関わらず、同時に朝廷から余計な介入がないよう絶妙に気を配りながら事を進めた事で、 頼朝は鎌倉という「京から離れた地」での「事実上朝廷から切り離された」独自政権を建てるに至った。 ……だが、朝廷の立場から見てみれば「難敵を追い出す為に連れて来た奴が、別の形を取って難敵になり出した」という皮肉な事態。 諸々の事態を打開可能な勢力が頼朝しかいないという、やむを得ない状況下での対処であったのだが、 結果として朝廷の復権には至らないばかりか、逆に新興の勢力が生まれるという新たな頭痛のタネが出来上がってしまったのだ。 そういった側面からも、鎌倉の影響力拡大は朝廷にとっては「無視しがたい目の上のタンコブ」みたいな話でもあった。 とは言え、朝廷も不満はありつつ軍事的・政治的影響力が強大な鎌倉を早々足蹴にするわけにはいかず、 他方鎌倉も自分たちの権威基盤は「朝廷の威光・認可に基づく」という事は充分理解していたため、両者の関係は若干の緊張感をはらみつつも穏当な状況を維持していた。 ◆騒乱の発端 ~将軍の死と後継問題~ 鎌倉の創建者にして初代将軍・頼朝没後より代を重ねた1203年。 三代目として頼朝の次男・源(みなもとの)実朝(さねとも)が新たな鎌倉殿に就任する。 実朝はその名付け親が他ならぬ後鳥羽上皇であり、妻にも上皇の姪御を迎えるなど、その立場は朝廷と浅からぬ繋がりがあった。 朝廷側も彼の存在は重要視していたらしく、彼に与える官職の昇格スピードはかなり早く、 最終的には実朝に「右大臣」という当時の武士階層としては初にして破格の地位を授けていた(*11)。 また実朝は、小倉百人一首の一人にも選ばれるように和歌を嗜んでいた事で有名なのだが、これも朝廷・宮中における重要文化の一つであり、 そういった意味でも彼の存在は朝廷と鎌倉における重要な橋渡し的側面を持っていた(*12)。 一方、実朝には当時子供がおらず(*13)、後継者に関する問題も付いて回っていた。 対処の一環、そして朝廷との更なる関係強化も兼ねて、後鳥羽上皇の皇子を次代の将軍に迎える案が内々に検討され始めた、その矢先。 1219年1月。 右大臣任官の催事として鶴岡八幡宮に参拝していた実朝が、先代将軍の遺児・公暁の襲撃を受け、暗殺されてしまう(*14)。 それは即ち、頼朝から続いた源氏将軍の血筋が絶たれた事を意味し、 同時に、それまで安定期にあった朝幕関係が一気に悪化する契機ともなった(*15) 実朝の死を受け、鎌倉は直ちに次代の将軍として後鳥羽上皇の皇子・雅成親王(まさなりしんのう)を鎌倉へ迎えたいと朝廷に要請を出す。 内々ではあるが相談はしている話なだけに、程なく了承される……と思いきや、上皇は対応を保留する。 理由は所説あり、 皇子を出すことでむしろ鎌倉と朝廷で日本の二分化が加速する事を懸念した 将軍が暗殺されるという前代未聞の事態により、鎌倉の治安の悪さを問題視した そもそも皇子を送る事自体は実朝が存命であるのが前提であった 等あるが、定かではない。 いずれにせよ、この反応に鎌倉は再三の要望を送るのだが、すると上皇、今度は 「親王を迎えたいなら、自分の寵姫・亀菊が持つ荘園の地頭廃止と、自分の部下である武将への処分を撤回せよ」 と、まさかの交換条件を突き出してきた。 だが、守護・地頭制は幕府による御家人たちへの所領安堵と事実上セット(*16)であり、 それを朝廷の都合で廃止するという行為は今後の幕府体制に悪影響が大きすぎる話であった。 もう一つの要求に至っては了承すれば「朝廷なら幕府の処罰を容易に覆せる」という前例を生むことになり、これまた後々に禍根を生み出しかねないモノ。 結果、将軍に次ぐ序列第二位、現時点での幕府最高権力者である執権・北条義時(ほうじょうよしとき)はこの要求を拒否。 対処及び交渉のため、弟の時房に兵千人を預けて京に向かわせるという強硬策に打って出る。 だが、武力を背景にしたこの対応にも朝廷は応じる事は無く、結局上皇が「摂関家(*17)の人間であれば鎌倉殿としても良い」と妥協案を示し、義時ら鎌倉側もこれを了承。 初代将軍・頼朝との血縁関係があった九条家の三男・三(み)寅(とら)(後の九条頼経(くじょうよりつね))(*18)を新たな鎌倉殿として迎える事になった。 しかし、当時三寅は2歳かそこらという幼児だったため、将軍職としての立場は頼朝の妻で実朝の母・政(まさ)子(こ)が代行し、実務は執権の義時が中心となって進める格好に落ち着いた。 だが、この一件は元々微妙だった朝廷と幕府に致命的な亀裂を生む一因となった。 朝廷にとって本件は「こちらの要望が通らない=朝廷の意向・権威を鎌倉側が無視した」形であり、結果的にこちらが妥協案を示す=折れる形になった。 加えて何より「武力を背景にした朝廷への要求」という行為は、後鳥羽上皇の祖父・後白河法皇がかつて平清盛より受けた事(通称「治承三年の政変(*19)」)と同じ所業。 朝廷及び自身の権威向上に腐心していた後鳥羽上皇にとって、それをを一度ならず二度までも、というのは腹立たしいにも程がある話であった。 一方、鎌倉側にとっても本件は業腹極まる話だった。 「鎌倉殿」の存在は、鎌倉幕府が成立する上では不可欠なんて言葉では言い表せないレベルの重要な存在。 それが欠落したとあっては、一歩間違えれば鎌倉が崩壊しかねない緊急事態である。 (その幕府が後継者になりうる人材を軒並み死なせたのは禁句。) にも拘らず、かねてから打診していた筈の後継者についての依頼をしたのに対応は遅く、せっつくと今度は無茶な要求を突きつけられ(*20)、 最終的には妥協案に乗らざるを得ない形になるなど、あからさまに非協力的な上皇及び朝廷への不信感は否応なく増幅していった。 加えて実朝の死は、こうして生じてしまった両者の亀裂を修復する役目を持つ「橋渡し役」の喪失も意味しており、関係改善がより一層困難な事態になってしまった。 そして同年。 京の大内裏が在京の武将による騒乱の果てに焼失した際、その再建費を全国に一律負担するよう上皇は命じたのだが、 これに各地の武将――要は鎌倉麾下の御家人たちが軒並み反発・拒絶するという事態が発生(*21)。 西と東、朝廷と鎌倉の対立は、半ば公然としたものへとなりつつあった。 ◆乱の勃発~敵の名は北条義時~ 先の一件含め、諸々積み重なった現状は、後鳥羽上皇にある策謀を抱かせるに至った。 朝廷相手に武力を背景にした恫喝も辞さない構えを見せたばかりか、源氏将軍が絶えた今、鎌倉で絶対的な権威を振るう執権・北条義時。 地方出身の豪族に過ぎない身でありながら、鎌倉の中心で政を差配するばかりか、あまつさえ朝廷すら蔑ろにする彼という存在を、上皇は遂に排除する事に決めたのだ(*22)。 この上皇の意思に当代の天皇・順徳天皇(じゅんとくてんのう)(*23)も同調。 当時4歳の息子に天皇の地位を譲り、自らも上皇となる事で自由な立場になり、協力することとした。 他方、順徳天皇の先代である土御門上皇(つちみかどじょうこう)(*24)は後鳥羽上皇の決定に反対し、一部の公卿(*25)らも異を唱えたが、 逆に後鳥羽上皇は彼らを要職から排除するといった措置を取るなど、その意思は変わらなかった。 そして、1221年(承久3年)5月14日。 後鳥羽上皇は「流鏑馬を行うので、近隣の武士たちは集まるように」という通達を出す。 無論そんな話は建前であり、その真意は自身に従う軍勢を集めるための招集であった。 集結した武将は上皇直属の北面・西面武士(*26)だけでなく、近隣諸国の兵、果ては在京していた鎌倉由縁の御家人まで加わり、その数は千を超えていた。 人員を集めた上皇は手始めとして、鎌倉から京都守護として派遣され、今回の招集に応じなかった武将・伊賀光季(*27)を討伐。 更に公卿の内、親鎌倉派として知られていた西園寺公経を幽閉。 これで周辺を自勢力で固め、造反勢力を抑え込んだ上皇は、翌15日に五畿内諸国(現在の奈良・京都及び大阪近隣)及び日本全国の御家人・守護地頭へと院宣(*28)を下した。 その内容は、 新たな将軍が幼い事を利用して、己の好き勝手に裁可を下し天下を乱す謀反人・北条義時を追討せよ。 逆らう者がいるのなら、速やかにこれを討ち取れ。 かつて平家追討の際に出された時と同様、朝廷の最高権力者「治天の君」による、北条義時討伐命令が全国の武将へと下されたのである。 院宣が下された直後、京側の士気は高かった。 それもその筈、上皇の院宣は文字通り最強の切札。どんな公家・武士であってもそれを前にしたのならば、絶対的に従わざるを得ない「錦の御旗」。 西国は勿論、鎌倉幕府勢力下の武士達とて、無下にすることなど到底考えられない代物であり、東国を含めた諸国の武将はこぞって上皇に味方すると確信していた。 加えて、鎌倉に在する有力御家人に対しては個別に院宣を送るなど、根回しも周到。 「義時の味方など千人も居ない」と言われるほどであった。 ……だが、彼らは勿論、後鳥羽上皇もある種読み違いをしていた。 京方に「上皇という最高権威」由来の院宣という絶対的な切札があるように、 鎌倉方にも「頼朝が築いた鎌倉」由来の、当代無比にして最強の鬼札がある事を。 そもそも、東国一帯に生きる武将――坂東武者たちが、何のために戦うのか、 そして、自分達が生きるこの時代が、今どういう流れに動きつつあるのか、という事を。 ◆鎌倉の対応 ~誤算、演説、そして蹶起~ さて、上皇は義時追討の命を下したのだが、その内容を記した通知は二種類に分けられる。 一つは、守護・地頭といった各地の御家人に送られた、いわば「全体向け」の内容の通知。 もう一つは、特定の御家人に対して格別の内容を記した通知である。 どちらも院宣が正式に下り次第、所定の者が各地、ないし特定の御家人の下へ通知を持参して事を伝える、という手筈であった。 だが、ここで(のっけから)誤算が生じ始める。 院宣を下す前、京一帯の地固めとして討伐された京都守護・伊賀光季。 実は彼、追討軍に応戦する一方で、家中の者を鎌倉への伝令として脱出させていたのだ。 同様に、上皇によって幽閉された西園寺公経も、事前に部下を鎌倉へ向かわせることに成功。 結果、院宣を携えた使者が来るよりも早く、鎌倉側は上皇の挙兵を始めとした変事を把握する事が出来た。 必然、鎌倉は警戒を強め、その結果後から来た京からの使者を捕える事に成功した。 そして更なる誤算は、個別に送った院宣である。 送られた通知は全部で8通で、いずれも在京経験があり、鎌倉幕府においては相応の勢力を誇る御家人達に宛てられたもので、 この院宣によって、上皇及は鎌倉内部の分断を図り、ひいては義時追討を果たそうとした。 で、その内の1通を(こっちは予定通りに)受け取ったのが、三浦(みうら)義村(よしむら)。 京側についた武将・三浦(みうら)胤義(たねよし)の兄であり、当時の鎌倉においては北条一族に次ぐ勢力を誇る有力御家人・三浦家の当主であった。 胤義は会議において「見返りとして相当の地位を約束すれば、兄は確実にこちらに味方する」と請け負っており、密使に持たせて送った院宣及び通知もその意見に準じたものだった。 のだが。 なんと義村、届いた文書をそのまま追討対象である義時並びに鎌倉首脳陣の下へ持って行ったのである。 曰く「京に住む弟から届いた書状を見てください」とか言って見せ、加えて「私は弟の反逆に加担する気はありません。鎌倉に味方して忠義をつくす所存です(キリッ」とか言ってのけたとか。 ……なんて事ない様に思うかもだが、この密書は(要約すれば)「『三浦一族は義時を討てという命令が上皇様からありました』by弟」と言う内容。 つまり、見る人が見れば「三浦一族は義時追討を目論んでいる」と認識されかねない代物である。 どれ程忠誠を口にしようと、腹の中が読めないのはいつの時代も同じな以上、一歩間違えれば忠義っぷりを褒められる前に返す刀で誅殺されかねない大劇物である。 そんなものをしれっと義時らに見せ、「自分に謀反するつもりはない」といけしゃあしゃあと宣える辺り、この男、只者ではない。(*29)。 ともあれ、挙兵の情報及び院宣は、かなり早い段階で鎌倉首脳陣の下へ伝わる格好になった。 とはいえ、事態が好転したわけではないのが実情。 何しろ義時はこの院宣が下された瞬間から、まごう事なき「朝敵」。 京からの使者こそ捕縛したが、あくまで鎌倉近辺に向けた使者一人であって、他の地域への使者まで全て止められる訳もなし。 遠からず事態は御家人全員が聞き及ぶ事となるだろう。 そうなれば、御家人の少なくない者は義時を討とうと動き出し、仮に成功すれば「鎌倉の中枢で政治を舵取りする人材の喪失・欠落」という政治的混乱必至の事態。 無論失敗もあり得るが、それは即ち義時側の応戦=鎌倉での武力衝突の発生。 そしてそれ即ち「上皇への反逆」と見なされ更なる朝敵扱いという、どう転んでも大混乱は確定事項。 下手をすれば「鎌倉殿」という統治体制が根底から崩壊しかねない、絶体絶命の危機と言えた。 が、そこで立ち上がったのが、当時「尼将軍」の異名で呼ばれていた、初代将軍の妻にして義時の姉・政子。 上皇の挙兵という一大事変に浮足立つ御家人たちに向けて、世に言う「北条政子の演説」をぶち上げたのである(*30)。 その内容を現代版に翻訳・意訳すると、 皆心して聞きなさい、これが私の最後の言葉です。 亡き将軍頼朝公が平家を討ち、坂東に鎌倉を創設して以降、保障してきた皆の地位、与えてきた褒賞、その全ての恩は山よりも高く、海よりもなお深いものの筈。 その恩に報いようという心は無いのですか! 今、逆臣の讒言に基づき、上皇は道理と正義を無視した命令を下しました。 坂東武者としての、そして己と一族の名誉を重んずるのなら、ただちに逆臣たちとその軍を打ち破り、源氏三代の将軍達が遺した、この鎌倉の地を護り通すのです! もし上皇に従おうという者がいるのなら、今この場で申し出るがいい!! ――頼朝が鎌倉に幕府を開いてから、およそ30年余り。 世代交代も進む中で、坂東・東国一帯の御家人にとって「鎌倉」という存在は「当たり前の統治機構」になりつつあった。 それ故に御家人たちにとって初代鎌倉殿・頼朝という人物は「自分たちの今を築き上げてくれた存在」であり、 故に「今日の自分達の立場と暮らしが守られているのは、他ならぬ頼朝公、そして彼が築いた『鎌倉殿』のお陰である」という共通意識が、 坂東を始めとした鎌倉勢力圏には広く浸透していたのだ。 そんな頼朝への恩義として、彼が築いた鎌倉の守護の勤めを果たすべし、という言葉を、他でもない頼朝の妻である政子から一喝された以上、御家人たちに応じない理由は無かった。 上皇の誤算、その二つ目は、「頼朝、そして『鎌倉殿』の偉功」という、御家人たちにとっては上皇へのそれをも凌ぐ、目に見えない力が鎌倉に深く根付いていた、という点である。 そもそも政子の言にある通り、鎌倉の武将達にとって、自分達に褒賞をもたらし領地安堵を保障してくれるのは「頼朝が築いた鎌倉殿」であり、 遠く離れた京に居座る、会った事も話した事もない「上皇様」に対して義理立てする理由がすっかり薄くなっていたのだ。 ……もっとも、この演説。 よく読むと、院宣にある討伐対象はあくまで「北条義時『個人』」なのに、話の中で頼朝の名前を出してその恩顧を説くことで、 あたかも討伐対象が「鎌倉全体である」ように印象づける格好になっている。 演説の中でさりげなく話題を頼朝やその恩義の話にもっていき、「義時を討てば丸く収まる」とか御家人が考えないように意識を逸らし、 「討つべき相手は上皇一派だ」と御家人たちに思わせる、ファインプレー感満載なトーク内容だったりする。 加えて、実のところ御家人たち全員が「頼朝への恩顧」や「鎌倉の守護」を理由に結集したかと言うと、そうでもなかったりする。 『承久記』に曰く、政子の演説を聞いて鎌倉側へ付く事を決めたとされる一人、甲斐国の武将・武田(たけだ)信光(のぶみつ)。ご存知「甲斐の虎」こと武田信玄の先祖である。 彼は後日出陣した際、帯同した武将との会話で「鎌倉が勝ったら鎌倉に、京が勝てば京につくのが武士ってもんだろ」と事も無げに言い放っているのだ(*31)。 しかもその後、鎌倉側から勝利した際の褒賞を約束する書面が届くや、水を得た魚の如く猛進軍を開始したという。 そもそも、鎌倉殿と御家人の関係は、忠誠心とか先祖からの恩顧とか、そういった物に基づく関係ではなく、互いが互いの利益となる行為を行い合う互恵的・双務的な関係。 現代風に言えば「派遣社員と派遣先企業」といったビジネスライク感満載な、利益と打算を双方が考えた上で結ばれた契約関係であった(*32)。 しかも当時、戦争などで相手を討ち滅ぼして武功を上げれば、相手側の土地が功績に応じて褒賞として分け当たられる都合上、 「勢力規模的に勝算が高く」かつ「勝ったら上皇軍の領地をゴッソリ貰える可能性がある」鎌倉側へつこうと考えるのは当然であったのだ。 (封建制も参照) 「自分に利をもたらしてくれるのはどちらか」。 上皇側の誤算の二つ目、その別側面は、坂東一帯及び多くの御家人にとっては「上皇直々の御達し」よりも「付いた結果得られる利得」の方がよっぽど重要だった。 つまりそれだけ「朝廷の威光・権威」は形式的な物として扱われ、実利面ではさしたる効力を持たない時代になりつつあった、という点を読み違えていた事でもあった。 身も蓋もない言い方をすれば、「京におわす上皇様の院宣」なんぞ「戦に勝った結果貰えるだろう褒賞」の前には紙切れ同然、 例えるなら「今じゃケツを拭く紙にもなりゃしねぇってのによぉ!」一歩手前状態だったのだ。 ……まあ、何はともあれ。 政子の演説内容と御家人の思惑が合致した結果、鎌倉側の御家人は「打倒上皇軍」へと纏まる事になった。 ◆進撃の鎌倉、失態の京方 ~「いざ鎌倉」もとい「いざ京へ」~ かくして方針は決定し、19日には具体的な対応策を首脳陣で協議する事となった。 当初は箱根近郊に勢力を結集し、上皇軍を迎え撃つ策が検討されたのだが、 鎌倉草創期からの重鎮・大江(おおえ)広元(ひろもと)は、「迎撃は時間が取られ、その間に御家人達の動揺と離反を招く」と指摘。 その上で、「勢力が集まり次第出撃させ、京へ向かわせる」という、積極的な対応を提案した。 これに同じく首脳陣の三善(みよし)康信(やすのぶ)、及び政子も同調し、義時を始めとする慎重論派とのせめぎ合いもあったが、 最終的には「最速での戦力出動・京への進撃」が決定された。 そして22日。 東海道・東山道・北陸道の三方面から、それぞれ北条(ほうじょう)泰時(やすとき)(*33)・武田信光・北条(ほうじょう)朝時(ともとき)(*34)が指揮官となり、京へ向けて進撃を開始した。 速度最優先の出撃の結果、出発時は極小数、泰時麾下に至っては僅か18騎程度だったという。 だが、数はどうあれ「上皇を誑かした逆臣を討ち、鎌倉を守護すべく京へ進軍する」という名目の積極策は、 様子見を決め込んでいたり、態度を決めかねていた御家人達には効果的面であった。 結果、道中で在地の豪族や御家人達は次々と鎌倉側に合流・帰順していき、その勢力はドンドン増大。 最終的には(所説あるが) 東海道軍:10万騎 東山道軍:5万騎 北陸道軍:4万騎 その総勢、およそ19万騎という、当時はおろか日本史上においても空前絶後の大軍勢となっていた(*35)。 参考までに…… 今回と同様、歴史上に大きく名を刻む戦乱と比較すると、戦国時代有数の大合戦「関ヶ原の戦い」において、 勝利した東軍(徳川家康側)でも約7万から10万程度、西軍(石田三成側)とあわせてようやく18万程、である。 単独陣営で19万という数値に並ぶものは、豊臣秀吉による小田原征伐がほぼ同数、超えるとなると同じく秀吉の九州平定時の勢力(約20万)が挙げられる。 ……逆に言えば、天下統一まであと一歩まで近づいていた秀吉レベルの勢力を、この時点で義時ら鎌倉は確保していた、ともいえる。 その一方、鎌倉に留まった「朝敵」義時は、先に捕縛した京の使者の一人・押松丸を、敢えて京へと送り返した。 京の御所に戻った押松丸を出迎えた京方首脳陣は、当初「義時が討伐されたのか、それとも逃げたのか」「首は誰が取ったのか」と、勝利した気満々の思考でいた。 だか、押松丸が持って来たのは結果報告などではなく、他ならぬ義時からの文書。 『北条九代記』に曰く、その文面は 私、北条義時は、今日に至るまで上皇様に忠義を尽くしてまいりました。 ですがこの度、上皇様は讒言を信じ、私を討伐すべしとの命を下されました。 ですので、弟の時房(*36)、子の泰時・朝時を始めとする19万の軍勢を京へ上洛させます。 もしそれでもお気持ちが変わらないようであれば、他の子らと私自らが、20万の兵を連れて参上いたします。 ――事実上の宣戦布告を記したものだった。 更に押松丸から、上皇の院宣を受けとった鎌倉が恭順するどころか蹶起を決めた事、文面の内容が虚偽でも脅しでもなく事実であり、 坂東武者が大挙して京へ向かっている事を告げられると、場にいた一同から浮かれ具合は霧散霧消した。 勝ったも同然の気で居たら一転、強者揃いの坂東武者が群れをなして京へなだれ込んでくるというのだから、それも必然であった。 とはいえ何もしないわけも無く、後鳥羽上皇は直ちに配下の武将・藤原(ふじわらの)秀康(ひでやす)を総大将とした迎撃軍を編制。 鎌倉方を迎え撃つべく準備に取り掛かった、 のだが。 京方が院宣の効力を絶対視し、勢力集めを京周辺地域でしか行っていなかった事に加え、 鎌倉側の対応及び進撃スピードが想定外過ぎた事もあって、集められた戦力はこの時点で1万数千騎余り(多く見ても2万以下)。 ……これでも当時で見ればよく集められた方なのだが、如何せん鎌倉方の総数19万と比べると、絶望という表現すら生ぬるいレベルの戦力差であった。 さらに京方は、搔き集めたこの手勢を迎撃のため木曽川沿いに布陣させるのだが、その際に、 「川沿いの各所に兵力を分散して配置・布陣する」という、彼我の戦力差が圧倒的な状況下で一番やってはいけない戦法を取ってしまう(*37)。 まあ平家追討を初め多くの戦を経験し場数を踏んでいた鎌倉に比べれば、京方にその辺りのノウハウがしっかりあったのか、と聞かれれば、甚だ疑問な話。 そもそも「鎌倉方の総数は19万です」という、ケタ外れにも程がある話を京方が本気で受け止めていたのかも怪しいところ。 「戦意を削ぐための虚仮威し」「多少のフカシ入ってるだろ」として兵力を少なく見積もる――というかそう思いたくなるのも無理からぬ話ではある。 しかし、現実は残酷なモノ。 案の定というか、木曾川の布陣における最上流地点・大井戸(現在の岐阜県可児市)でまず開かれた戦端において、 京方の軍勢2千騎が武田信光率いる5万の軍勢を前になすすべなく蹂躙された。 他の布陣箇所においても、同時期に泰時率いる10万の軍勢が合流していた事も手伝って劣勢……というか勝負になる訳がなかった。 なにせ「鎌倉側に何処かの地点が突破されたら、別の地点にその鎌倉の部隊が増援として向かう」格好になるのだから、 戦力差が歴然のこの情勢下ではジリ貧になるのは当たり前過ぎる話。 京方布陣の最後方・墨俣(現在の岐阜県大垣市付近)に鎌倉側が到達した際には、もはや交戦不可能と判断した京方が撤退していてもぬけの殻、という有り様であった。 もっとも、別に京方も諦めたわけではなかった。 墨俣からの撤退も、裏を返せば状況判断の上での迅速な対応の一環とも言えた。 後退した京方は、新たに宇治・瀬田(現在の京都府宇治市と滋賀県大津市。両府県の境地域)を絶対防衛ラインと定め、残存勢力を結集。 それと並行する形で、西国(京以西。中国・九州地方)の武士に対して出動を命じる事で戦力増強を図った。 (「いや遅ぇ」とか言うのは禁句。) 最初の戦闘で敗れこそしたが、それで戦自体に負けたつもりなど、京方には毛頭無かったのであった。 だが、如何せん遅すぎた。 鎌倉の進撃速度は迅速の一言に尽き、増援となる西国武将が駆けつける前に京に到達される可能性が高い状況だった。 (「ほらな」とか言わない。) そこで上皇が足を運んだのは、京の北東・比叡山にある天台宗総本山・延暦寺。 当時、延暦寺を始めとした寺社は「僧兵」と呼ばれる独自の武装勢力を保有しており、上皇はその協力を仰いで戦力を補おうとしたのだ。 が。 上皇直々のこの要望を、延暦寺側は拒絶した。 というのも、当時の寺社は保有する武力に加えて財力・地域への影響力などその権力は尋常ではなく、ある種の独立国家じみた勢力を誇っていた。 当然朝廷側からすれば甚だ鬱陶しい存在であったため、寺社の勢力を削ぐべく腐心する羽目になっており、それは後鳥羽上皇も例外ではなかった。(*38) 延暦寺側からすれば後鳥羽上皇は「自分達に難癖つけて力を削ごうとしてくる面倒な存在」でしかなく、 加えて一連の事態はあくまで「朝廷と鎌倉」の問題であり、自分たちとは(直接的には)無関係。 そんな事にわざわざ首を突っ込む理由も、半ば対立関係にあった上皇の窮地を救う義理も道理も、延暦寺側は微塵も持ち合わせていなかったのだ。 かくして(ある意味日頃の行いのツケが丸ごと回ってきた)上皇は、現有戦力のみでの応戦を余儀なくされるのだった(*39)。 ◆決着、そして始末の果て ~王法すでに尽ぬ~ 先に定めた絶対防衛ラインたる宇治・瀬田に残存勢力を結集させた京方。 一方順調に軍を進めた鎌倉側は、6月13日には宇治近郊へ到着。 ここに両軍は相対することになった。 京方としては絶望的にも程がある状況下だが、唯一の救いは、宇治・瀬田地域に流れる宇治川(淀川)の存在だった。 琵琶湖から出て大阪湾へと流れ至るこの川は、東国から京へまっすぐ向かうには絶対越えなければならない境界線。 源平合戦の際には、以仁王の乱で源頼政が平家軍を、また木曾義仲も源義経を宇治川で迎え撃ち、攻撃側を散々に困らせていた。 とはいえ、頼政も義仲も結局は守り切れずに敗れ去っており、絶対の要害などでは決してない。 しかし、京方にしてみれば、まさに天が味方した格好となる事態が起こる。 折しも宇治川は降雨に伴って増水しており、船による渡河は難易度が上がっていた。 京方は宇治川にかかる橋を落として相手の進軍を止め、更に対岸から矢を浴びせかけるという戦法を取った。 幕府軍としてみれば強引に出せない事もないが、そうすれば操船に手間取るうちに矢の雨を浴びせられ、針鼠と化すのは必至。 結果、鎌倉側も攻めあぐねる事態になった。 しかも、京方にはまだ希望がある。 ここで可能な限り時間を稼げれば、西国からの増援が来て状況を盛り返せる、せめて拮抗状態にまでは持ち直せる―― と、思った矢先の、翌14日。 坂東武者の「橋が無いなら、川の浅瀬を探して渡ればいいじゃない」の蛮族思考脳筋パワープレイ全開の論法に基づき、鎌倉側の一部が強引に渡河に成功(*40)。 防御陣が突き崩され、その隙に後続の軍勢が船で対岸へ到着した事で、京方は敗走。 その日の夜には鎌倉の軍勢が京の市街地へ到達し、勝敗は決する事となった。 かくして敗軍の将と化した後鳥羽上皇だが、この時点で鎌倉の軍へ使者を送っている。 要は事実上の敗北宣言であったのだが、その内容は(意訳すると) 「義時を討て」って院宣出したけど、アレは部下に嘘つかれたせいだから取り消すね 代わりに嘘ついて自分騙した藤原秀康や三浦胤義を捕まえるように院宣出すね 鎌倉に味方してたから解任した公卿達も復権させるし、今後朝廷が武士を召し抱えることもしないし、反省するからもう勘弁してね ……という、清々しいまでの責任丸投げ・保身全開の弁明連発であった。 しかも上皇、宇治川での戦いに敗れた後「せめて一矢報いるために再戦を」と考え御所にやって来た藤原秀康ら京方の武将に対し、 御所の門を閉ざして彼らを追い返す(=面会しようとすらしなかった)という所業に及んでいる。 その上での先の書面。 完全に上皇は彼らを生贄にして生き残ろうとしていたのだ。 見捨てられる格好になった秀康以下京方の武将は、京の東寺に立てこもって抗戦するも、三浦義村率いる鎌倉軍の前に敗北。 藤原秀康は逃走するも捕縛、三浦胤義は自刃して果て、ここに騒乱は決着するに至った。 余談:三浦胤義の最後 実の兄・三浦義村に攻められる形となった弟・胤義だが、『承久記』において、彼は兄と交戦前に対面を果たした、という記述がある。 兄と相対した胤義は、兄が自分と朝廷ではなく義時と鎌倉を選んだことを恨み、同時にそんな兄に上皇からの院宣を送ってしまった事を後悔していた。 もはや死以外に道はない事は理解しているが、せめて最後にそんな兄の顔を見てやろうと思っていた……と、積年の思いをぶちまけるが如き語りをしたという。 が、そんな弟に対して兄・義村は、「痴れ者にかけ合って無益なり(馬鹿の相手をするのは時間の無駄だ)」と告げ、相手にする事も無く立ち去ったという。 その後、胤義は攻めてくる義村の軍勢に奮戦するも、最終的に自害して果てる事になる。 一つの選択によって文字通り明暗分かれた兄弟だったが、どちらが正しく、また賢かったのかを推し量るのは簡単では無い。 なにせ、義村本人は天寿を全うしたが、彼の裔たる三浦一族は、後年になって北条一族――つまり義時の末裔によって滅ぼされる事になるのだから。 なお、一応フォローするなら、先述の上皇の対応は酷すぎるにしても程があるが、一方で「敗北確定時の対処」としては、あながち変でもない。 どうあがいても敗戦確定の状況下で、迂闊に抗戦体制でも取ろうものなら、情け容赦絶無の坂東武者が大挙して京一帯に攻め入り、都は文字通り灰燼に帰す事すら考えられる。 特に後鳥羽上皇は、いわゆる「源平合戦」の最中に天皇の座に就いたのだが、皇位継承における最重要の宝物「三種の神器」が手元に無い状況での即位を余儀なくされた事、 挙げ句その内一つが、源平合戦の最終戦「壇ノ浦の戦い」の末に行方知れずとなってしまった事(*41)もあって、 歴代朝廷所縁の備品保存には人一倍神経をとがらせていたと考えられている(*42)。 つまり上皇にとっては「最後まで戦う事」なんぞより、「自身と皇族の安全確保」及び「朝廷の施設・備品一式の保全」が絶対にして最優先課題であった。 となれば、「鎌倉側に『敵を討ち倒して勝利した』という印象を与えて戦乱を収束させる」ために、 なにかしらの生贄・スケープゴートを立ててそっちで鎌倉の鬱憤を晴らさせる、というのもあながち悪手ではない。 また、政子の演説内容や義時の返答(という名の喧嘩宣告)を見れば、鎌倉側は(一応は)「上皇が悪い」ではなく「上皇の臣下が謀略した(悪い)」と述べている。 つまり「上皇を討ち取る事」それ自体は目的にしていないとも解釈できる以上、「謀略を働いた臣下を討ち取った」時点で鎌倉側の戦闘理由は消滅、つまり事実上の終戦と相成るのだから、 そっちに鎌倉が舵を切るよう誘導し、事態を終息させるのも一つの手、と言える(生贄にされた側はたまったもんじゃないが)。 また、そもそもの話として、この「情け無さ全開の上皇の対応」自体、後世において創作ないし誇張されたモノであって、ホントかどうかは微妙という意見もある。 一説では上皇の通知はあくまで「義時追討命令の撤回」と「京に到着した鎌倉軍の掠奪行為の停止要請」であったという。 早い話、これ以上京の洛中で破壊行為が行われないよう、戦争の火種となった院宣の取り消しを行う事で事態の収拾を図った、という事。 藤原秀康らの追討命令や事実上の武装放棄といった話は、この通知と前後する形で彼らが討伐・捕縛されて抵抗可能な軍勢が事実上いなくなった事から、 「上皇の通知の結果そうなった」と拡大解釈され、それがそのまま後世の文献に記されたのでは、とも考えられている(*43)。 いずれにせよ、上皇もまた、敗北確定の中で何とか生存への道を見出そうと必死だった、というのは間違いない。 (はいそこ、「ある意味自業自得だろ」とか言わない) 戦後の沙汰は7月に確定した。 その結果、(先の弁明の効果も無く)首謀者である後鳥羽上皇は隠岐島へ、協力した順徳上皇は佐渡島へ配流(流罪)となった。 乱に反対していた土御門上皇も自ら望む形で土佐国へ配流となり、後鳥羽上皇の皇子たちも但馬国、備前国へと配流。 更に順徳上皇から天皇の座を譲位されたばかりの皇子・懐成親王(かねなりしんのう)は皇位を剥奪され、新たに後(ご)堀河(ほりかわ)天皇(てんのう)(当時10歳。後鳥羽上皇の甥御に当たる)が即位する事となった。 余談:天皇と称されなかった天皇・懐成親王 文中で述べた通り、乱に先駆けて当代の天皇・順徳天皇は譲位して自身の皇子・懐成親王(当時4歳)へ天皇の地位を譲った。 通常天皇に在位した場合、その人物に対しては「天皇として呼ぶべき名前(尊号・諡号)」が没後に贈られる。 本項目で出てきた「後鳥羽」「土御門」「順徳」といった名称も、そういった経緯で贈られた称号であり、それが今日に至るまで各種文献に記されている。 のだが、この懐成親王に限っては、そうはいかなかった。 というのも、天皇が即位(皇位継承)する際には「即位式」や「大嘗祭」といった所定の祭祀を行う事で初めて「即位・在位した」事を内外に知らしめる。 逆に言えば、こうした手続きが踏まれていないと「正式に即位した天皇」として認められない(というか認めようがない)という事になる。 そして懐成親王の場合「践祚(せんそ)」と呼ばれる「皇位継承における最初の手続き」は済んでいたが、そこから先の即位式・大嘗祭といった手続きは済んでいなかったのだ。 理由は至極単純で、順徳上皇の譲位から承久の乱の終結・戦後処理まで僅か78日足らずだったため。 要は「即位」に関する祭祀を行う時間が禄に無かったからである。 そもそも勝利した鎌倉側の戦後処理の一環で「皇位を廃する」事になるなど、当時の朝廷は全く想像できなかったのだ。 結果、先に触れた通り「所定の手順が踏まれていない=天皇として在位していたとは見なせない」形となり、乱から13年後の1234年に崩御した後も諡号がされる事は無かった。 以後は母の実家が摂関家の一つ・九条家であった事から「九条廃帝」、もしくは「承久の廃帝」などと称されるようになった。 懐成親王に「天皇としての尊号」がようやく定められるのは、時代が下って1870年。 時の明治政府によって「仲恭(ちゅうきょう)天皇(てんのう)」の諡号が贈られてからであった(*44)。 また、後鳥羽上皇の管理下にあった荘園はその全てが没収となり、表向きは後堀河天皇の父・守貞親王の管理下となったが、 「何かあったら鎌倉に返すように」という条件付きであり、実際の支配権は鎌倉のものであった。 加えて、朝廷内部の取り仕切りは、幽閉されていた西園寺公経が復帰して内大臣に任命された事で、以後鎌倉の意向が強く反映される事になった。 更に鎌倉は、以後の朝廷・京周辺及び西国の支配強化策として、京都守護に代わって新たに六波羅へ監視部門を設置(通称「六(ろく)波羅(はら)探題(たんだい)」)。 朝廷側と京以西への統制・監視体制の強化を進める事になる。 文章で書くと、なんともサラッとした印象を抱くかもだが、この処断は、当時の価値観においては前代未聞なんてレベルを遥か彼方に通り越した仰天処分だった。 過去において、天皇や上皇および皇族や公家が、内乱や権力闘争の果てに追放や処分を受けた、なんて話は枚挙に暇がない。 が、それらはあくまで「朝廷内部における騒動」の結果。 今回のように「朝廷VS外部勢力」という事態そのものがレアケースな上、 その「外部勢力」は鎌倉――つまり(くどいようだが)当時の価値観では明らかに下位に属する武士階級が主体。 おまけにその武士が文句なしの大勝利をおさめ、上皇を始めとした国の最高権力者たちをその座から引きずり降ろして島流しに処するなど、 もう空前絶後とか天地がひっくり返ったとか、そんな表現ですら足りない異常事態であった。 ついでに言うと、この処分に関する決定権を有していた執権・北条義時は、元を質せば伊豆出身の極小豪族の次男坊。 そんな彼が武家政権の最高責任者に上り詰めただけでも超絶級なのに、そこに加えて上皇を文字通り「裁く」なんて事は、もう当時の常識の埒外に過ぎる話であった。 とまあ、かくして乱の首謀者たる上皇とその関係者は、悉く京での地位と権力を失う形になった訳だが、大事な事がもう一つある。 文字通り当時の常識を逸脱したこの処断だが、実のところこれでもまだ彼らの地位を考慮した「ゆるい」処断であり、 彼らに付き従った者――つまり公家や武士たちへの罰は、もっと容赦が無く苛烈だった。 後鳥羽上皇に組した公卿の内、中心的存在とされた者は「合戦張本公卿」と称され、軒並み捕えられた上で鎌倉へ護送……の途中で全員処刑された。 それ以外でも、上皇の近臣はその多くが流罪・謹慎などの処罰を受けた。 また、藤原秀康はじめ、上皇についた御家人及び京方の武将も多数が処刑・追放。 そして彼らや京方の公家の所領は根こそぎ没収された上、鎌倉方の御家人へ褒章として分け与えられた。 厳しい表現をすれば、上皇に従った者たちはある意味「時勢を読み切れなかった」ともいえるが、それはあくまで後世から見たが故の話。 実際問題、朝廷に与した者たち全員が鎌倉へ不満や批判を抱いていたかといえば、そんな事は無い。 何度も触れているが、当時の価値観では「上皇の命令」への絶対性は決して無視できるものではなかった。 鎌倉方についた御家人たちは「政子の演説」という超級の鬼札を前に意思を決定したが、 それを知る余地もなかった京周辺の武将・御家人たちが、上皇が「かくあるべし」と意向を定めた以上、それに抗うという思考を抱けたかは疑問符がつく。 そうした面においては、彼らにも温情や情状酌量の余地は大いにあったと言えるだろう。 だが、鎌倉は、そして執権・北条義時は容赦しなかった。 詳細は彼の項目に譲るが、鎌倉において、正真正銘「血で血を洗う凄惨な権力闘争」を繰り広げてきた義時らは、 たとえ「上皇の命令」であったとしても、自分たちに敵対した勢力を放置したらどんな事態が先に待っているかという事を、嫌と言うほど思い知っていた。 それはイコール、騒乱を終結させ後顧の憂いを絶つためには、どんな「処分」が最適かという事を、骨の髄まで理解していた、という事でもあった。 加えて当時、土地は当人および一族にとって命といっても過言ではないものだった。 所領を失う事は生活基盤を失う事と同義であり、だからこそ武将や公家は自所領の権益確保・拡大に躍起になっていた。 「鎌倉殿」というシステム・統治機構が上手く普及したのも「御家人の所領安堵」という制度が見事に需要と噛み合っていたからである。 が、(当たり前の話だが)日本列島にある土地の数・量には一定の「限界」がある。 そして、武功を立てた者には恩賞として土地を与えるのが当時の習わし。 幕府としても、恩賞を与えなければ「幕府の危機に立ち上がった御家人に何の恩賞も出さなかった」という既成事実を作ってしまうことになり、存立基盤が危うくなる。 承久の乱における恩賞の出処は乱で上皇方についた者たちの土地しかない。 そして、その「敗れた者」は、後になって復権する事のないよう「排除」する―― そうした「当時においては当然」の理論の帰結に基づき、「新しい力」による旧来勢力の排除は、加減も温情も無く速やかに執行されていったのだった。 そして、元寇の際には敵が国外のために同じ手法が採れず、鎌倉幕府が一気に衰亡していくことになる… この敗北の結果、後鳥羽上皇の人物評価は劇的に下がった。 鎌倉幕府はおろか、公家からも「天が許さなかった」と冷ややかな評価ばかりが目立つことになった。 上皇の敗戦が以後の朝廷のあり方を劇的に変えてしまったという覆いがたい失態。 公家たちからすれば、鎌倉幕府に恭順的な姿勢を見せなければ処刑や追放の危険すらある状況。 最悪の場合「朝廷そのものが潰される」事態さえあり得る中では、「朝廷」でなく「上皇個人」に責任を押しつけて朝廷の存続をはからざるをえない。 こうして上皇は「徳も力もないのに無謀な戦いを挑んで案の定敗れ、いざ敗れると保身に走る、仕える価値もない愚かな上皇」と扱われることになったのである。 前記した京都に攻め込まれた時点での情けなさ全開の対応をはじめ、各種文献においてもその手のエピソードを生み出しやすい人物――要は「ダメ人間」扱いされやすい要因となった、とも言える。 ◆後世への影響 ~朝威の落陽、武士の暁天~ 乱の後、朝廷及び天皇の「日の本の頂点」という立ち位置自体は変わらなかったものの、その有り様は一変した。 完膚なきまでにその権力と威光をへし折られた朝廷は、事実上鎌倉に屈服する事になったのだ。 例えば後堀河天皇の後代・四条天皇が12歳の若さで急逝した際、その後継者選出で紛糾した朝廷内勢力が「鎌倉側の意向・賛同を求める」手紙を送るなど、 以後の朝廷の差配、特に天皇や摂政・関白といった重要人事については、原則「鎌倉の意向を確認・優先する」形が定着した。 これは即ち、鎌倉が事実上日本全域における政治の権限を掌握した事に他ならず、名実共に鎌倉幕府は「日本の統治者」としての地位を確立したのだ。 同時に鎌倉幕府の最高位たる征夷大将軍の意味も、それまでの「武家の棟梁」=「日本の武将達の統括者」から一歩進み、 以降江戸時代まで続く「事実上の日本の最高指導者」としての性質を有する事になった。 そしてそれは、当時定着つつあった「将軍は実質飾りで、実際の政治は側近たる執権が行う」政治体制――執権政治において、 その執権の座に就いた者が、この国を事実上統べる者になった、という事でもあった。 とはいえ、鎌倉側にとっては両手を上げて喜べる話ばかりではなかった。 何しろ支配領域が事実上日本全域に及んだのだから、これまで以上に各地に目を光らせ、反乱や騒乱に気を配る手間が増える事になった。 加えて前述の通り、西国の土地を東国の武士達に恩賞として与えた結果、現地住民と御家人の間でのトラブルも続発し、その対処に追われる羽目になったりもした。 オマケに先述の「朝廷からの意向確認」についても、公家の官位や皇位継承といった話は、それまで「朝廷があれやこれやと進め、決定してから通達が来る話」でしかなかったのに、 今後は鎌倉もある程度口を挟める――というか「口を挟まないといけない」状態に転じてしまった。 総括すれば「勝利と引き換えに『やらなきゃならない仕事』が異様に増えた」格好。 今まで以上に日の本全体の情勢に目と頭を巡らせる――要は「国政」を本格的に行う事を余儀なくされたのだった。 だが、そうした悲喜交々を差し引いても、この勝利はまさしく「歴史を変えた」一件だった。 実態はどうあれ、それまで日の本において朝廷、そして天皇及び上皇は「絶対的権威」であり、 皇族や公家が物申す事こそあれど、公然と反発したり、剰え刃を向ける事など考えられない存在だった。 だが承久の乱において、鎌倉殿とその配下たる御家人たちは、その固定観念に真っ向から喧嘩を売り、そして勝った。 勝ってしまった。 勝ててしまった。 それは「たとえ朝廷・上皇であっても、純然たる『武力』の前には屈する」という事の証明。 武力を持つ者、すなわち「武士」であれば、この日の本を意のままに動かす事も可能という事実の確立であった。 つまり、将軍とそれに仕える御家人――「武士」という階級の有り様が、それまでの「武力を保有するだけでそこまでの権益はない」状態から一転し、 「名実共に天下を差配しうる」存在になった事を意味していた。 それまでの「朝廷・公家>武士・豪族」という、絶対的な力関係・従来の固定観念が文字通りひっくり返ったのだ。 この「武士階級による日本の統治」は、1333年に後(ご)醍(だい)醐(ご)天皇(てんのう)及び足利(あしかが)尊氏(たかうじ)によって鎌倉幕府が滅亡に追い込まれるまで継続した。 その後、後醍醐天皇は再び朝廷を絶対とした政治機構の再構築「建武の新政」に着手するも最終的に失敗。 世にいう「南北朝時代」の混乱の末に、足利尊氏が征夷大将軍に任ぜられ「室町幕府」が開闢。再び「武家の棟梁」による日本統治が開始された。 この後、室町から戦国時代を経て創設された「江戸幕府」の終焉まで、武士階級による日本支配・統治は継続。 朝廷とは異なる形式による、天皇を頂点とした新たな政治統治機構の構築――「明治維新」に至るまでの、実に約600年の長きに渡って「武士階級による日本の実質的な統治」は続くことになった。 加えて、維新後の「日本国」黎明期において政治を差配したのは、いわゆる「薩長土肥」と称される、倒幕活動の中心を担った武士階級の人々が多数を占めていた。 その結果がどんな歴史を紡いできたかは、近現代史を学んだ人なら誰もが良く知る通り。 すなわち、この「承久の乱」における鎌倉側の勝利は、現代へと繋がる日本史を形成する上で欠かすことの出来ない事変。 我々が生きる「今」へと繋がる、歴史における大いなる節目。 知名度の高い「応仁の乱」や「関ヶ原の戦い」すら凌ぎうる、日本史上屈指の絶対的な分岐点と言えるのだ。 歴史に「もしも」はありはしない。ただ事実の積み重ねがあるのみであり、仮定の先を確かめる術もない。 それでも、例えば… 追討の院宣が漏洩する事無く、各地の御家人に適切に伝わっていたら? 命令を受けた御家人がそれに従い、「朝敵」義時を討っていたら? 政子ら鎌倉側が、上皇への反抗ではなく恭順を選択していたら? 後鳥羽上皇が手勢をより多く集め、鎌倉に抗しうる戦力を持っていたら? 戦いの場に後鳥羽上皇自らが出陣していたら(*45)? これらの内どれか一つでも、誰か一人でも違う選択や行動を取っていたならば、 鎌倉時代における「武士階級による日本統治の確立」という事態には至らず 武士という階級が歴史を動かす存在となる事も無く、今日我々が良く知る「この歴史」は、間違いなく成立することは無かったと言えるだろう。 追記・修正は、承久の乱の年号を「ひとにふいうち」か「ひっぷにいちげき」のどっちかで覚えた方がお願いします。 △メニュー 項目変更 この項目が面白かったなら……\ポチッと/ -アニヲタWiki- ▷ コメント欄 [部分編集] 登録日時が明らかに操作してあるけどこのくらいはいいんでなかろうか。出来事と鎌倉軍勝利は知ってたけど戦力差がここまで圧倒的だったとは知らなんだ。関ヶ原しかもその両軍合計分の兵が一気に… -- 名無しさん (2022-12-27 03 02 44) 「鎌倉の対応 ~誤算、演説、そして蹶起~」のある箇所、朝廷扱いって何?朝敵っしょ!直しときます。 -- 名無しさん (2022-12-27 10 20 30) 「ひっぷにいちげき」……『教科書っていうか!?』という漫画で覚えましたなぁ。 -- 名無しさん (2022-12-27 11 33 31) なんで今日できた項目なのに登録日2 -- 名無しさん (2022-12-27 11 55 36) ↑ミス 登録日21日なんだ、と思ったら年号に合わせたシャレなのね -- 名無しさん (2022-12-27 11 56 24) とても良い項目でした。北条義時の項目を書いたのと同じ人かな? -- 名無しさん (2022-12-27 12 07 58) 政子マジ強キャラ -- 名無しさん (2022-12-27 12 20 46) 年号の覚え方、『ワンツーツーワン』はダメですか。 -- 名無しさん (2022-12-27 12 38 16) ↑他にも色々、年号の語呂合わせが出来そうですなぁ。 -- 名無しさん (2022-12-27 13 27 10) QKの民おって草 -- 名無しさん (2022-12-27 13 32 35) ホント今年の大河を見るまでは北条政子、承久の乱というワードは習ったが義時とか細部は全くだったか勉強になったわ -- 名無しさん (2022-12-27 14 31 21) 鎌倉幕府の真の始まりは承久の乱からと言っても過言ではないかもしれない -- 名無しさん (2022-12-27 14 46 27) 正式な登録日時をきちんと書く形でネタ登録日時を復活させてみました。 -- 名無しさん (2022-12-27 15 37 13) 「三浦義村がわけわかんないことした」が武家政権成立の理由の1つだったとは…こいつ敵に回すと怖いけど味方にもしたくないなあ… -- 名無しさん (2022-12-27 17 03 53) ↑山本耕史の怪演も相まって、三浦義村が「鎌倉のロキ」にしか見えない。 -- 名無しさん (2022-12-27 19 37 41) 三浦義村がわけわかんなすぎる、歴史には時おりこういう怪人物が登場するから面白い -- 名無しさん (2022-12-27 20 01 28) 進研ゼミの教材にあった「いつ注いでもお言葉上級」、いつつい(1221)でもおことば(後鳥羽)じょうきゅう(承久)という語呂合わせが未だに印象に残ってる -- 名無しさん (2022-12-27 22 16 23) 漫画版「吾妻鏡」で予習済みの私にスキはなかった。漫画版だと老いで弱り病で視力も失った大江広元が「盲いた年寄りにも言わせてくだされ」と言いながら「持久戦を選べば敵を待つ間に仲間の心が乱れます。討って出たほうが良い」と一度も戦場に行ったこともないのに戦機を掴んでいたのが印象深かった。 -- 名無しさん (2022-12-27 23 10 52) ↑3 やっぱり外星人だったんじゃ…イミフな行動の数々も地球人類を進歩させるための工作だったのかもしれん -- 名無しさん (2022-12-28 07 44 59) この項目マジ受けるんだけど、超承久の変〜 -- 名無しさん (2022-12-28 07 56 59) 「上皇自ら出陣」という小さなことで勝敗が逆転してた可能性があるとは……歴史は恐ろしい。良項目ありがとうございました -- 名無しさん (2022-12-28 10 33 25) 北条朝時は義時の次男で三男は極楽寺重時だぞ。 -- 名無しさん (2022-12-28 21 51 32) 三浦一族の滅亡(宝治合戦)は大河ドラマの北条時宗の第一話で描かれていたな。義村の家督を継いだ三浦泰村を津嘉山正種さんが、泰村の弟の三浦光村を遠藤憲一さんがやってた。宝治合戦開始と共に流れるオープニングのメインテーマの雰囲気も相まって泰村殿が可哀想でならなかった(大体、安達と弟の光村のせい)。 -- 名無しさん (2022-12-28 21 58 37) 執権=過労死上等のスーパー激務化の始まり始まり -- 名無しさん (2022-12-29 08 42 20) 他の国の歴史ならこんな戦いがあれば天皇上皇という地位や朝廷という政権自体が滅びてもおかしくないんだけどそうはならないのが日本史 -- 名無しさん (2022-12-29 10 10 18) ↑5小さな事どころか上皇直々に戦場に向かうって相当だぞ。外国との殲滅戦争ならともかく田舎の派遣社員の反乱に最高権力者が直々に出向くのかと -- 名無しさん (2022-12-29 10 31 41) ↑2そうなんだよな。事実隣の中国とかでは何度も政権が滅びているし、「後に再び権力を握れるものを残さない」スタンスなら天皇上皇制もまとめて滅ぼしても良かったはず。高校で日本史の先生にそこを聞いても「天皇上皇を滅ぼすのは神を滅ぼしたのと同じだからそこまでやると今度は誰も鎌倉方についてこなくなる」というわかるようなわからんような解説しかもらえなかった。そこの辺もついでにこの項目で解決するかなと思いながら読んでたけど、天皇上皇が「象徴」となった現代に生きる自分にはやっぱりよくわからんかった。欲を言えばそこの辺の解説も欲しいな…非常に良項目だった。楽しませてもらいました。 -- 名無しさん (2022-12-30 01 27 25) ↑天皇家を滅ぼしたら今度は北条が天皇家に代わる正当な権威の構造作らないといけないから。要は御恩と奉公っていう実利だけでなく長期にわたる権利を保障できる機構を作らなきゃいけない。それにはもう何十年なんてレベルじゃないとんでもない時間がかかる。 -- 名無しさん (2022-12-30 02 58 01) ↑大雑把に言えば当時の武家は朝廷の貴族にルーツを持つ軍事貴族が主なので、「朝廷の否定=自らの出自や立場の否定」に繋がりかねん。ましてや源家将軍(河内源氏)は「清和源氏」の名の通り天皇家にルーツを持つ訳で -- 名無しさん (2022-12-30 03 08 17) ↑2北条氏にしても桓武平氏の直系を自称しているので、朝廷を滅ぼせば今度は自家の権威が危ない。 -- 名無しさん (2022-12-31 00 22 08) 別の切り口で語るなら、本文中にもある通り権力が集中するほど「やらねばならない職務」がどんどん増える。例えばこれまで朝廷の貴族が担ってきた学問、医療、宗教、暦、文化などなどの職務も武家がやらなきゃあかんくなる -- 名無しさん (2022-12-31 02 54 32) 日本の天皇はヨーロッパだと教皇に当たるとよく言われるけど、そういう点ではヨーロッパでも王様と教皇が対立したり、その結果負けた教皇が捕まったり挿げ替えられた事はあるけど、教皇制度やバチカン自体を滅ぼそうとした王様なんていないわけで。 -- 名無しさん (2023-01-01 09 25 37) 天皇自身が義時をではなく、天皇が部下の言葉を鵜呑みにして出したってのは。やっぱ本当に直接対峙はできない位のお人なのよね… -- 名無しさん (2023-01-03 15 56 40) ↑2日本人は本人も意識してないけど全員が神道(というか日本教)の信者だからな -- 名無しさん (2023-01-14 01 06 59) ↑8 逆に皇帝が殺される中国の方が特殊。あっちは早々に皇帝に権力が集中する仕組みが作られた 儒教の中に「国が天災などで乱れるのは君主の徳がないからである、故に国が乱れたら速やかに新しい君主にして国を護るべし(≒殺してもいい)」という思想があったから… -- 名無しさん (2023-02-02 09 24 21) 「逃げ上手の若君」の歴史解説の本郷氏は「幕府軍の合計兵力は多くても1万5千くらいだったのでは?」という説を出してるな。「死者負傷者の記録から計算した数字。総兵力の記録は盛られがち。」だそう。(11巻巻末より) -- 名無しさん (2023-07-22 20 05 58) 項目立てた方、編集に携わった方々マジで感謝。勉強になった。このまま教科書に乗せてしまった方が教育に貢献できると思うくらいありがたいです。 -- 名無しさん (2023-12-28 12 27 01) 名前 コメント
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登録日:2010/06/08 Tue 22 34 04 更新日:2024/02/12 Mon 07 56 41NEW! 所要時間:約 6 分で読めます ▽タグ一覧 ゴッ!トッ!バッ! ゴトバイン ゴトバゴトバ ←鳥はいない ゴリラ!トラ!バッタ! 上皇 人物 天皇 後鳥羽天皇 承久の乱 日本史 歌人 歴史 鎌倉時代 鎌倉殿の13人 今年の夏、海水浴場の監視員のアルバイトをしていた。 DQNカップルに向かって「危ないぞ、沖に流されたらどうするんだ!」って注意したら DQN「おきに流されるって、後鳥羽上皇かよwww」 DQN女「マジ受けるんだけど、超承久の乱www」 とか言って聞き入れなかった。 その後、突然の嵐にDQN共は沖に流されその姿を見たものはいない。 後鳥羽(ごとば)天皇 1180年8月6日~1239年3月28日 平家と共に西に落ちた安徳天皇に代わり即位。 第82代目の天皇。 時は1183年、木曾義仲率いる源氏の軍勢に京を追われた平家は「安徳天皇」を連れ西へと落ち延びる。 天皇不在のままでは政務が滞ることを危惧した後白河法皇は、翌年当時五歳の尊成親王を即位させて「後鳥羽天皇」とし、当人は摂政として実権を握った。 この時、天皇の即位に必要な「三種の神器」は平家によって持ち出されており、神器は正当な天皇の手に必ず戻ってくるという事にして、事後承諾的に神器がないまま天皇に即位することとなった。 天皇が二人いる(安徳天皇は退位していなかったため)というこの異例の状況は、二年後の1185年に安徳天皇が「壇ノ浦の戦い」で平氏一門と共に崩御するまで続いた。 しかし、三種の神器のうち、「草薙剣」のみ回収が叶わずに平氏や安徳天皇と共に海中に消えてしまったため、 三種の神器が揃わないことで後鳥羽天皇の天皇としての正当性は保証されず、少しでも不徳をすれば「まあ、神器が揃ってない天皇だしねぇ…」等の嫌味を言われたりしており、 後鳥羽天皇自身もこれをコンプレックスと感じていたようで、何度か宝剣探索を行わせているが、結局壇ノ浦に沈んだ「草薙剣」は見つからなかった(*1)。 この事が彼の人格とその後の人生に大きな影を落とすこととなる。 後鳥羽天皇が在位してからは後白河法皇が院政を敷いており、後白河法皇が崩御してからは当時の関白であった「九条兼実」が政権を握り、 後白河法皇が忌避していた「源頼朝」の征夷大将軍就任が認められたことで、史上初の武家政権である「鎌倉幕府」が誕生する。 しかし、兼実と頼朝及び鎌倉幕府の関係は次第に悪化し、1196年に起きた「建久七年の政変」で兼実の郎党が朝廷から一掃されている。 それから二年後の1198年、後鳥羽天皇は当時3歳であった息子の為仁親王に位を譲って「土御門天皇」とし、自身は院へと移り院政を開始。 その後三代に渡り、上皇として政務を取り仕切ることとなり、1202年に朝廷で権勢をふるった土御門通親が急死し、九条兼実も出家したことで名実ともに「治天の君」となった。 鎌倉幕府には強硬な姿勢を崩さなかったが、和歌などに造詣が深い源千幡が三代目将軍となった時には上皇自ら「源実朝」の名乗りを認め、 実朝を朝廷側に引き込んで鎌倉幕府内への影響力を強めようとする後鳥羽上皇と、実子のいない実朝の後継ぎに皇族を据えようとする鎌倉幕府は互いの思惑もあって一時期良好な関係となるが、 源実朝が甥の公暁に暗殺される事件が起こるとその関係は終わりを告げ、急速に関係は悪化していくこととなった。 幕府との関係上、心優しい土御門天皇では厳しいと考えた上皇は、1210年に土御門を退位させると新たに「順徳天皇」を据え、1221年には「仲恭天皇」を推戴し鎌倉幕府倒幕の準備を進める。 (もっとも、幕府を倒すというよりは「執権の北条義時を倒して幕府の状況を変えたかっただけ」とする説もある) 同年1221年、遂に準備を終えた上皇は鎌倉方に挙兵。 朝廷の権威をもってすれば、武士はみんな味方に付くだろうという打算があった。 …が、当の朝廷内部ですら鎌倉方と仲の良い者もいれば、これでは勝てないと諫める者がいる状態。 息子の土御門上皇すら反対しており、この見通しは正直甘かったと言わざるを得ない。 一方の鎌倉幕府も、朝廷の権威がどれほどか測りかねて動揺したのは事実であったが、結局大半の武士は鎌倉方についた。 北条政子の頼朝の恩を謳った大演説は、歴史の授業で聞いた人も多かろう(*2)。 兵力で大幅に劣る朝廷軍は各戦線で敗戦を重ね、最終的に朝廷軍は幕府軍に大敗を喫することとなった。 助けを求めた比叡山延暦寺の僧兵にも普段の政策が災いしてそっぽを向かれ、京都を守る最後の防衛戦も突破されてしまう。 事ここに至って、後鳥羽上皇が取った対応は… 幕府軍に使者を送って「義時追討の院宣は取り消します。というかあれは一部の佞臣の企てで言わされたもので、決して自分の本意じゃないんです。私は関与してません!」 一緒に戦うことを求めて御所にやってきた主要な武士を門を閉じて追い返したどころか、彼らを逮捕するように幕府側に院宣を出す。 必死になって上皇を止めていたが、上皇に逆らえず院宣の文章を作った部下を「反乱の張本人」として鎌倉に突き出す。もちろんその部下は結果として死刑に… と、部下に責任を擦り付けて自分は責任を逃れようとする、なんとも身勝手なものであった。 当然ここまでやらかしておいて言い逃れできるはずもなく、結局捕らえられた後鳥羽上皇は隠岐へと流罪。関わりある者等も連座して方々へ流された。 元々側近以外の貴族からは(前述の三種の神器の件も含めて)後鳥羽上皇の評判はあまり良くなかったこともあり、 承久の乱で敗北し失脚した後鳥羽上皇への視線は冷ややかなものが大半であり、上述の九条兼実の弟にして天台座主(天台宗および延暦寺のトップ)の慈円が書いた『愚管抄』などにも「自業自得」と書かれている。 後鳥羽の挙兵に反対していた息子の土御門上皇も「自分は関与してないけど、自分だけ京都にいるのも辛い…」と京都を離れたが、 承久の乱に関与しておらず、罪人でもない土御門上皇に関しては、幕府も上皇が居を移した四国に宮殿を作るなど相応に配慮している。 当の後鳥羽上皇は隠岐へと流されても挫けた様子はなく、都との連絡を頻繁に取り赦免運動と趣味である和歌の編纂等にいそしんでいたが、1239年崩御。 都への帰還が絶望的になった後、「万一にもこの世の妄念にひかれて魔物となることがあれば、この世に災いをなすだろう。 我が子孫が世を取ることがあれば、それは全て我が力によるものである。もし我が子孫が世を取ることあれば、我が菩提を弔うように」との未練と無念さをにじませた文を残している。 崩御と前後して、北条泰時や四条天皇といった幕府と朝廷の要人の死が相次いだため、怨霊になったとも噂される。その怨霊を鎮めるため諡号は顕徳院とされた。 なお、この「承久の乱」を機に六波羅探題が設置されたことで、朝廷は事実上幕府に従属し、後鳥羽上皇自身どころか朝廷権力全般が凋落してしまった。 後に天皇の位を継げる皇統が後鳥羽上皇の子孫しかいない事態となってしまったため、天皇の先祖が怨霊ではまずかろうということで後鳥羽院へと改諡され、ある程度は復権している。 とはいえ、即位した後嵯峨天皇は、後継者争いを引き起こした末に次の天皇の決定を幕府に丸投げするというとんでもない行為をやらかし、その結果皇統が持明院統と大覚寺統の2つに分断される。 こうして東国武士のための政権だった鎌倉幕府は、名実ともに日本政府という立場と責務を押し付けられてしまった。 それから半世紀、正当な天皇の後継者が成長するまでの中継ぎとして即位した後醍醐天皇が今度こそ幕府を滅ぼす事ととなる。 とはいえ、その間に武士の力が高くなっていく一方、後醍醐天皇に政治力はなく、結局政権は武士の手に戻ってしまう。 その後武士から朝廷に権力が戻ったのは19世紀の大政奉還を待たなければならなかった。 一流の歌人・文化人としても有名であり、「新古今和歌集」の編纂を命じるなどし、小倉百人一首にもその名を遺した。 歌人との親交も深く、歌人としても有名な源実朝が生きている間は、後鳥羽上皇も幕府にはむしろ好意的なくらいであった。 朕は歌人の追記・修正を命じる △メニュー 項目変更 この項目が面白かったなら……\ポチッと/ -アニヲタWiki- ▷ コメント欄 [部分編集] この頃になると、朝廷を支えてた御師や傀儡子やら鎌倉方についてそうだから、上皇さんの支持者って限られてたろうな 鎌倉武士たちは論外だし -- 松永さん (2013-03-26 20 57 33) DQNの切り返しすごいな。超承久の乱って…上級者だな。 -- 名無しさん (2013-11-19 17 55 05) DQNの知能レベルの高さが無駄に高い。 -- 名無しさん (2013-11-19 18 06 08) 崇徳さんとデュエットしたら? -- 名無しさん (2013-11-19 18 11 06) たしかにタトバ天皇とか居ても語感的には違和感ないなw -- 名無しさん (2014-01-24 22 19 31) 最初のDQNに草不可避w -- 名無しさん (2014-01-24 22 21 56) 御堀川帝とその后、摂政藤原教実の死は後鳥羽帝の生霊。三浦義村、北条時房、泰時、四条帝の死は怨霊だって考えられてる。これもあって歴代天皇で唯一贈名が「顕徳院」から「後鳥羽院」に変えられている -- (2014-01-24 22 22 30) しかし院政ってなんだろうな。天皇退位してから本番とか言う感じなのがなあ。 -- 名無しさん (2014-07-13 21 29 21) 天皇は政治を行うというより神事や宮廷行事を執り行うことが中心で自由がないからな。帝の地位を退いたほうが元天皇である面からも色々と自由にできるからな。それに治天の君ともなればその力は絶大だろうし。 -- 名無しさん (2015-02-04 02 44 18) タグがカッコいいと思った(小並感)。 -- 名無しさん (2015-03-07 23 10 24) 上皇のイメージが強すぎて天皇と書かれると一瞬戸惑う -- 名無しさん (2015-03-07 23 21 10) ↑同意。教科書じゃ、「上皇」の肩書で掲載されてたしね。 -- 名無しさん (2015-03-07 23 53 08) 菊一文字もこの人の時代だっけ(本当に菊の紋を入れされたかどうかわからんけど) -- 名無しさん (2015-03-07 23 59 58) 高野山に住んでいた智行上人という僧侶が見た夢では、天照大御神に「このまま隠岐の地で死にゆくのは耐えられない。だから私は天下を滅ぼそうと思うのでそのことを大神に伝えに参った」と話す上皇の姿を見た、らしい -- (2015-04-06 02 29 31) 妙にインテリなDQNだな -- 名無しさん (2015-04-06 03 00 19) 承久の乱で負けて部下たちが屋敷に来て一緒に戦いましょうと申し出ると「俺しーらね。勝手に逃げれば?」「あ、幕府さん?うちの佞臣が暴走しちゃってさー」と言い逃れ。タダの夜郎自大だったっぽい。 -- 名無しさん (2017-04-24 20 10 18) ↑なのに死後は怨霊として妖怪になって祟るんだから性質悪い -- 名無しさん (2017-08-06 09 31 02) うちの恩師は「実朝の事は後鳥羽は結構気に入ってたんですよ、北条が嫌いなだけで」つってたな まあこの恩師「日本の文化は地味と派手の谷と山が続きます。東山文化の次を見なさい。安土桃山文化はド派手ですね。作った人は信長と秀吉。日本史上DQNベスト3の1位と2位です。3位は高師直」とか言ってたような人だったからなあ… -- 名無しさん (2018-01-31 17 30 53) ↑2 隠岐に流された頃は「自分は崇徳院のように怨霊にはなりたくない」と書き残したりはしてたんだけどな -- 名無しさん (2018-06-16 01 40 29) 息子の土御門天皇が最も不憫だな(´;ω;`)。3歳で後鳥羽天皇から譲位され、15歳で上皇へ (またしても後鳥羽上皇の口)、自身は鎌倉に対して反抗するべきではないと言っていたが後鳥羽上皇の暴走。後鳥羽上皇流罪のときは、自らに責任はないのに自ら進んで土佐へ流れた・・・ -- 名無しさん (2021-03-05 18 29 49) 土御門天皇もよくわからん人だよね、自分から流罪になりたがるってよほど家族仲良かったのか -- 名無しさん (2021-03-06 08 51 14) ↑6祖父の後白河法皇とやってることが一緒な辺り血筋だなあと思う。まあ祖父と違って言い逃れできなかったけど -- 名無しさん (2021-05-17 22 23 08) 学びのあるDQNだな... -- 名無しさん (2022-03-01 11 47 30) 一応後鳥羽院の低評価は、京都の貴族が鎌倉に恭順姿勢を見せるに当たって全部後鳥羽のせいにするために盛られてる可能性も高い気はするけどね。 -- 名無しさん (2022-10-31 11 21 34) ↑21崇徳上皇にとって後鳥羽上皇は自分の院政の道を潰した上に自分を流罪に追い込んだ憎き後白河天皇の子孫だからデュエットはしないと思う -- 名無しさん (2022-12-28 13 00 54) ↑むしろ崇徳上皇のたたりで後白河の孫である後鳥羽が負けて落ちぶれた感がある -- 名無しさん (2022-12-30 14 46 09) ↑後鳥羽上皇が落ちぶれたのが崇徳上皇の祟りならそこまでの間に後白河の皇子や孫の何人かが相次いで若くして亡くなったのも崇徳の祟りって事になっちゃうな。一番崇徳から恨まれてる後白河本人は長生きしたけど -- 名無しさん (2023-01-01 11 28 38) ゴッシーは祟り効かなそうな怪物感あるから…… -- 名無しさん (2023-01-01 11 37 03) 敗けて危機が及ぶとお公家さんらしく「配下がやったことです。知りません」命乞い発動したのがねえ。まだ「おのれ北条。くっ殺」だったら男としての株は保てたんだが -- 名無しさん (2023-01-14 00 08 06) 実際に明治位まで天皇家が没落したのは崇徳院の祟りって信じられていたからな。明治維新の際に明治天皇が崇徳院の御霊を京都に移して神社を建てたり -- 名無しさん (2023-01-14 00 46 49) ここ読むまで顕徳院→後鳥羽院の改諡をしらんかった。ウィキペディアとかで勉強しとけばよかった…歴史に「顕徳天皇」で名が残った可能性もあったって事か… -- 名無しさん (2023-04-14 19 00 15) 責任逃れの時の発言がクズ過ぎて笑ってしまったw -- 名無しさん (2023-06-06 06 57 35) この人が幕末から現代までの天皇でなくて良かった… 絶対どこかで暴走して諸外国から詰め寄られた時「部下が勝手にやったこと」とか言って、領土を分け与える条約結びそうだもん -- 名無しさん (2023-08-01 12 12 49) 名前 コメント
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鎌倉幕府の封建制度 中央 将軍、執権、御家人(御恩と奉公) 侍所(警視庁)、政所(財務省)、問注所(裁判所) 地方 守護 地頭(荘園ごとに設置) 鎌倉幕府の成立年は、1180, 1183, 1185, 1192 などの説がある。 鎌倉幕府 武家政治の始め 1180 頼朝挙兵 鎌倉に侍所設置 1183 後白河法皇から東海道・東山道の支配を認められる 1185 守護・地頭の設置 国ごとに設置される守護、荘園・国衙領ごとに置かれる地頭。年貢の徴収、治安維持を行う。 守護・地頭の設置が認められたことにより、完全ではないがほぼ全国に頼朝らの武家政権の支配力がおよぶことになった。 1192 源頼朝 征夷大将軍に就任 1199 頼朝 落馬が原因で死亡 1202 2代目将軍 頼家 御家人からの評判が悪く、追放される 1203 3代目将軍 実朝(さねとも) 1219 鶴岡八幡宮で公卿に暗殺される 北条政子 聴政 武家政権の確立 1221 承久の乱 北条義時 VS 後鳥羽上皇 後鳥羽上皇が北条義時追討の院宣 幕府側19万、朝廷側3万 後鳥羽上皇は隠岐(島根県)に島流し 京都に六波羅探題を設置 1232 北条泰時 御成敗式目(貞永式目)の制定 武士による武士のための最初の法律 時宗を襲った元寇 1271 蒙古 国書を呈す 1274 文永の役 1281 弘安の役 1297 永仁の徳政令 1333 鎌倉幕府滅ぶ 鎌倉文化 新古今和歌集 藤原定家編 小倉百人一首 方丈記 鴨長明 徒然草 吉田兼好 平家物語 武家造 東大寺南大門 円覚寺舎利殿 金剛力士像 運慶・快慶 鎌倉新仏教(浄土信仰系) 法然 【浄土宗】 1198 選択本願念仏集 「南無阿弥陀仏」のなを称するという行為(念仏)だけが必須であり、それ以外の修行は一切不要 親鸞 【浄土真宗】 歎異抄 弟子の唯円が親鸞の法語を没後30年以上たってからまとめた 悪人正機説と他力本願 善人なをもちて往生をとぐ。いわんや悪人をや 一遍 【時宗】 踊り念仏 鎌倉新仏教(禅宗) 栄西 【臨済宗】 お茶を宋から日本に持ってきた 道元 【曹洞宗】 本山は永平寺(福井県) 鎌倉新仏教(法華経) 日蓮 【日蓮宗】 「何妙法蓮華経」と題目を唱え、法華経至上主義で他宗派を徹底批判 1260 「立正安国論」を書き、北条時頼に意見する。
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後鳥羽上皇、順徳上皇、土御門上皇の遠流 1221年(O1221a) 承久3(1221)年、承久の乱。京都の朝廷の政治や院生が続けられていたが、武家政治がはじまり、その勢力がつよくなるにつれて、京都側は政権を取り戻そうとして兵を挙げた。後鳥羽上皇が中心となって統幕を計画したが、結局幕府軍にやぶれた。 同年、後鳥羽上皇、隠岐に流される。順徳上皇、佐渡に流される。 土御門上皇(つちみかどじょうこう)は、直接は承久の乱には関係なく、父の後鳥羽上皇を諌めたほどであったので、幕府は変後の処分を控えていたが、上皇が京都からほかへうつることを望んだので、幕府は上皇を土佐の畑(幡多)へうつすことにした。上皇は若宮(のちの後嵯峨天皇)を都にとどめ、近侍の人びとや雑事をつとめる人たちを供につれ、そまつな手輿に乗って、1221/11/25(承久3年閏10月10日)、京都を去った。 貞応元(1222)年5月、土御門上皇、阿波へうつる 寛喜3(1231)年、土御門上皇、阿波で死去。37歳。 参考文献 山本大, 1969, 高知県の歴史. 山川出版社.
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『玉葉』承安三年(1173年)四月二十九日条に、 文覚が後白河法皇の御所である法住寺に参上し、その場で放言したため 絡め取られ検非違使に引き渡された、という記事が載る。 文覚が伊豆へ流される際、その身は源頼政に預けられ、のち頼政の郎等である 源省によって伊豆へ護送されたことが『文覚四十五箇条起請文』に載る。 1199年(正治元年)三月、高倉天皇の第二皇子を皇位につけようと策動した罪で 流罪に処されたとする(『明月記』『百錬抄』)。 『百錬抄』は配流先を佐渡島としている。 また、『鎌倉大日記』『神護寺文書』『元享釈書』では、1202年(建仁二年)十二月二十五日に 佐渡から召還、その後1205年(元久二年)鎮西に流されたと記す。 『明恵上人行状記』では、1204年(元久元年)対馬に配流され、同年七月に日向で没、と記す。 『平家物語』では隠岐に流されたとし、その命を下した後鳥羽天皇に文覚が呪詛の言葉を吐き、 のち後鳥羽上皇が承久の乱により隠岐に流された事件と結びつけて語っていると云々。 『源平盛衰記』によれば 源渡の妻、袈裟御前に横恋慕した遠藤盛遠(もりとお)に対し、一計を案じた袈裟御前が、 酒で寝付かせた渡の首を切れと盛遠を唆し、自分の首を切らせた。 この件で源渡が出家、それを見た盛遠も出家した。この盛遠が後の文覚上人であるという。 京都市伏見区下鳥羽の利剣山恋塚寺に、文覚が建立した袈裟の首塚「恋塚」がある。 岐阜県恵那市加子母の小郷という山里に、文覚上人の墓をナメクジが這いまわるという 奇祭「なめくじまつり」がある。 ナメクジは袈裟御前の霊で、色白で首のあたりに刀痕らしい黒い斑があり、 文覚の罪を許して慕い寄るのだという。 文覚上人の墓所と呼ばれる場所は、神護寺のほか、佐渡、隠岐、対馬、高遠(長野県)などにある。 源頼朝挙兵の際、文覚上人の勧めで遠藤渡辺氏は頼朝の軍勢につき、 幕府成立後は西国出身の御家人ながら東国御家人なみの待遇を得た。 一方、承久の乱で、源姓渡辺氏は京方に味方していたため、 保持していた渡辺惣官職(大荘園の管理職)を没収され、 渡辺党内での主流が入れ替わっていた。 (zsphereコメント:上記『源平盛衰記』の文覚の逸話も、 こういった渡辺党の事情が影響しているか) 参考文献 『平家物語(五)』 『平家物語(十二)』 『酒呑童子の誕生』高橋昌明 『魔界と妖界の日本史』上島敏昭 平家物語(五) (講談社学術文庫) 平家物語(十二) (講談社学術文庫) 酒呑童子の誕生―もうひとつの日本文化 (中公文庫BIBLIO)
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足立遠元(あだち とおもと)日本????~????(13世紀)統率:C 武力:C 政治:C 知力:B 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------武将。平治の乱や治承・寿永の乱に参加し、武蔵国足立郡を安堵された。公文所の寄人に選出され、左衛門尉に叙され、源頼朝死後は十三人の合議制にも名を連ねた。 安達盛長(あだち もりなが)日本1135~1200統率:C 武力:C 政治:B 知力:B 文化:C 魅力:B--------------------------------------------------------------------------------御家人。源頼朝が伊豆の流人だった頃から仕え、頼朝と北条政子を取り持ったとされる。頼朝挙兵に従い下総の豪族・千葉常胤を説得して味方に引き入れた。奥州合戦に従軍して陸奥国安達郡を領した。十三人の合議制に名を連ね、三河国守護となる。 阿仏尼(あぶつに)、安嘉門院四条(あかもんいんのしじょう)日本1222?~1283統率:C 武力:C 政治:C 知力:B 文化:B 魅力:B--------------------------------------------------------------------------------女流歌人。奥山度繁の養女。安嘉門院に仕え、藤原為家の側室となり冷泉為相らの母となる。『十六夜日記』、『うたたね』、『夜の鵺』などを書き、多くの歌が歌集に入選している。 一遍(いっぺん)、円照大師、証誠大師、河野時氏日本(伊予国)1239~1289統率:B 武力:C 政治:C 知力:C 文化:A 魅力:A--------------------------------------------------------------------------------時宗の開祖。伊予国の豪族・別府通広の次男。出家して大宰府などで学ぶが、父の死で還俗、再び出家する。熊野を詣でた時に熊野権現の夢告をうけ、遊行して賦算(ふさん)と踊念仏を行なう時宗を開いた。 宇都宮景綱(うつのみや かげつな)日本(下野国)1235~1298統率:C 武力:C 政治:B 知力:C 文化:B 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------宇都宮家7代当主。宇都宮泰綱の子。将軍・宗尊親王に仕え、御格子番、御鞠奉行、下野守、評定衆、尾張守、検校、引付衆など幕府の要職に任じられた。和歌の才能もあった。 宇都宮朝綱(うつのみや ともつな)日本(下野国)1122~1204統率:A 武力:A 政治:B 知力:B 文化:B 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------宇都宮家3代当主。宇都宮宗綱の子。鳥羽院武者所、白河院北面、左衛門尉、宇都宮検校、宇都宮社務職。はじめ、平清盛に仕えたが、源頼朝が挙兵すると、これに従って功績を挙げ、『坂東一の弓取り』と評された。さらに後の奥州征伐でも功を挙げた。しかし、公田横領の罪で土佐に島流しとなった。 宇都宮泰綱(うつのみや やすつな)日本(下野国)1203~1261統率:C 武力:D 政治:B 知力:A 文化:A 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------宇都宮家6代当主。宇都宮頼綱の子。将軍・九条頼経に仕えて上洛し、下野守、評定衆、美濃守護に任じられる。歌人としても優秀で、『玉葉和歌集』や『続拾遺和歌集』に作品が多く収録されている。 宇都宮頼綱(うつのみや よりつな)、宇都宮蓮生日本(下野国)1172~1259統率:C 武力:C 政治:B 知力:A 文化:A 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------宇都宮家5代当主。宇都宮業綱の子。奥州藤原氏討伐で功績を挙げたが、父に連座して土佐に流刑となる。若くして出家し、藤原定家の百人一首の選定に協力した。承久の乱では鎌倉の留守役を任され、伊予守護に任ぜられた。 栄西(えいさい)、葉上房、千光国師日本(吉備国)1141~1215統率:B 武力:D 政治:C 知力:A 文化:A 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------臨済宗の開祖。若くして比叡山延暦寺で天台宗と密教を学んだ。しかし、形骸化した日本の天台宗に嫌気をさし、南宋に留学し、禅に感化される。帰国すると臨済宗を開き、筑前、肥後を中心に布教し、博多に日本初の禅道場・聖福寺を建立し、京に建仁寺を建立する。 大江広元(おおえの ひろもと)日本(山城国)1148~1225統率:C 武力:C 政治:A 知力:B 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------御家人。陸奥守。備後守護長井氏や三河酒井氏、毛利氏の祖。公文所別当(後に政所初代別当)を務め、守護・地頭の設置を源頼朝に献策した。 大友親時(おおとも ちかとき)日本(豊後国)1236~1295統率:C 武力:C 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------大友家4代当主。大友頼康の子で、大友貞親・貞宗の兄。父と共に元寇に際して戦った。因幡守。 大友親秀(おおとも ちかひで)日本(相模国)1195~1248統率:C 武力:C 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------御家人。大友家2代当主。大友能直の子。将軍・九条頼経に仕え、上洛の際に随行した。大炊助。 大友能直(おおとも よしなお)、古庄能直、中原能直日本(相模国愛甲郡)1172~1223統率:C 武力:C 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------相模国愛甲郡古庄郷司の近藤能成の子。母の生家(波多野経家)の所領・相模国足柄上郡大友郷を継いだ際に大友を名乗り、初代当主となった。 大友頼康(おおとも よりやす)日本1222~1300統率:B 武力:B 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------大友家3代当主。大友親秀の子。元寇の際に、幕命により鎮西東方の奉行に任命されて豊後国に土着した。文永の役では、元軍に箱崎八幡宮を焼かれて非難を浴びたが、弘安の役では志賀島の戦いで奮戦して軍功を挙げた。 鴨長明(かもの ちょうめい)日本(京)1155~1216統率:E 武力:D 政治:D 知力:C 文化:A 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------歌人、随筆家。賀茂御祖神社の神事を統率する鴨長継の次男。三大随筆の一つ『方丈記』の作者。また、『無名抄』、『発心集』などを著す。 公暁(くぎょう)日本1200~1219統率:C 武力:C 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------僧侶。2代将軍・源頼家の次男。父が暗殺されると、叔父の源実朝の猶子となる。後に出家して叔父・貞暁の弟子となり、鶴岡八幡宮寺別当となる。しかし、源実朝が鶴岡八幡宮に参詣した際に、「親の仇」と叫んで斬り殺した。その後、三浦義村を頼ったが追っ手に討たれた。 熊谷直実(くまがい なおざね)、蓮生日本(武蔵国大里郡熊谷郷)1141~1207統率:B 武力:A 政治:D 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------熊谷直貞の次男。平家の武将だったが、石橋山の戦いの後、源頼朝に臣従し御家人となる。その後は出家する。源平合戦の一ノ谷の戦いで、源義経と共に奇襲部隊に参加した。さらに、敵側の平敦盛を討ち取る武功を挙げた。 建礼門院(けんれいもんいん)、平徳子(たいらの とくこ)日本1155~1214統率:C 武力:C 政治:C 知力:C 文化:B 魅力:B--------------------------------------------------------------------------------高倉天皇の中宮。平清盛と平時子の娘。言仁親王を産み、高倉天皇が譲位して安徳天皇となる。しかし、高倉天皇、平清盛が次々と亡くなり平家の権勢が傾く。後白河法皇の平氏追討を受けて平家一族と共に西へ逃れ、壇ノ浦の戦いの最中に入水を図るが、助けられて京都に送還された。 後嵯峨天皇(ごさがてんのう)、邦仁(くにひと)日本1220~1272統率:C 武力:C 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------第88代天皇。土御門天皇の第二皇子。四条天皇が若くして崩御し、後継者がいなかったため、承久の乱関係者の中で、中立の立場だった土御門天皇の血統である後嵯峨天皇が擁立された。後に後深草天皇に皇位を禅譲して院生を始めた。 後鳥羽天皇(ごとばてんのう)、尊成(たかひら)、後鳥羽院、隠岐院日本1180~1239統率:A 武力:A 政治:C 知力:C 文化:A 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------第82代天皇。高倉天皇の第四皇子。平氏と共に西国に逃れた安徳天皇の代わりに立てられた天皇。後白河上皇の死後、源頼朝を征夷大将軍に任命して鎌倉幕府を開かせた。執権・北条義時を討とうと承久の乱を起こしたが、敗れ、隠岐に流された。武人としても歌人としても有名。西面の武士を組織する。 後堀河天皇(ごほりかわてんのう)、茂仁(ゆたひと)日本1212~1234統率:D 武力:D 政治:D 知力:D 文化:D 魅力:D--------------------------------------------------------------------------------第86代天皇。高倉天皇の孫に当たる。承久の乱の後、後鳥羽上皇の血筋を廃するために鎌倉幕府に擁立された。 西園寺禧子(さいおんじ きし)、後京極院日本1303~1333統率:D 武力:D 政治:D 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------後醍醐天皇の中宮。西園寺実兼の三女で、西園寺公衡、今出川兼季、永福門院、昭訓門院の妹。元弘の変で後醍醐天皇が隠岐に流されると出家するが、後醍醐天皇が帰京すると中宮に戻る。阿野廉子に天皇の寵愛を奪われ男子は産まなかった。 佐竹長義(さたけ ながよし)日本(常陸国)1207~1272統率:C 武力:D 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------佐竹家5代当主。佐竹義重の子。 佐竹秀義(さたけ ひでよし)日本(常陸国)1151~1226統率:C 武力:B 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------佐竹家3代当主。佐竹隆義の子。常陸介。父が平氏に付いていたため、源頼朝の挙兵に敵対した。金砂城の戦いで敗北し、奥州に逃れるが、後に赦され、奥州藤原氏討伐の後、御家人に列せられた。 佐竹義重(さたけ よししげ)日本(常陸国)1186~1252統率:C 武力:C 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------佐竹家4代当主。佐竹秀義の子。常陸介。父や弟などと共に承久の乱を戦い、佐竹家の地位の安定を図った。 佐竹義胤(さたけ よしたね)日本(常陸国)1227~1278統率:C 武力:D 政治:D 知力:D 文化:C 魅力:D--------------------------------------------------------------------------------佐竹家6代当主。 四條天皇(しじょうてんのう)、四条天皇、秀仁(みつひと)日本1231~1242統率:D 武力:D 政治:D 知力:D 文化:D 魅力:D--------------------------------------------------------------------------------第87代天皇。後堀河天皇の第一皇子。2歳で天皇位を譲渡され、後堀河上皇の院政の後、外戚の九条道家や西園寺公経が事実上政務を行っていた。しかし、若くして崩御してしまう。 島津忠時(しまづ ただとき)、島津忠義日本1202~1272統率:C 武力:C 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------島津家2代当主。島津忠久の子。承久の乱で幕府軍に従軍して武功を挙げた。鎌倉幕府の御家人として若狭守護を兼任し、近習番役を務め、伊賀・讃岐・和泉・越前・近江などの地頭に任じられる。修理亮、大隅守、左衛門尉。 島津忠久(しまづ ただひさ)日本1180~1227統率:C 武力:C 政治:C 知力:C 文化:D 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------鎌倉幕府の御家人。惟宗忠康の子。源頼朝から日向国島津庄の地頭に任じられ、島津姓を名乗った。その後、薩摩国・大隅国・日向国の守護となるが、比企能員の変に連座し、三州守護職と薩摩国を除く地頭職を剥奪される。島津氏の祖となる。 島津久経(しまづ ひさつね)、島津久時日本1225~1284統率:C 武力:C 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------島津家3代当主。島津忠時の嫡男。有力な御家人として昼番衆に任じられ、元寇の際に筑前守護となる。弘安の役では島津軍を率いて活躍した。浄光明寺を建立する。下野守、修理亮。 順德天皇(じゅんとくてんのう)、守成(もりなり)、佐渡院日本1197~1242統率:C 武力:C 政治:D 知力:D 文化:D 魅力:D--------------------------------------------------------------------------------第84代天皇。後鳥羽天皇の第三皇子。後鳥羽上皇によって廃位された土御門天皇の代わりに天皇に即位する。後鳥羽上皇に従い、承久の乱に従軍するが、敗れ、佐渡に島流しとなる。激しい気性の持ち主。 貞暁(じょうぎょう)(ていぎょう)日本1186~1231統率:C 武力:D 政治:D 知力:B 文化:A 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------僧侶。初代将軍・源頼朝の三男。清廉な人物で、『鎌倉法印』と呼ばれた。俗界から離れ、高野山に阿弥陀堂を建立して、一族を供養した。 少弐景資(しょうに かげすけ)日本1246~1286統率:B 武力:A 政治:C 知力:C 文化:D 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------幕府の御家人。北九州の名門の出で、少弐資能の三男。元寇の際、文永の役では父や兄と元軍と戦い、副司令官である劉復亭を矢で射抜き、弘安の役でも活躍した。安達泰盛と平頼綱が争い、霜月騒動が起きると、安達氏に付き、筑前で挙兵するが、相手方に組した兄に討たれた。 親鸞(しんらん)、見真大師日本(京)1173~1262統率:B 武力:D 政治:B 知力:A 文化:A 魅力:B--------------------------------------------------------------------------------天台宗の堂僧だったが、法然の弟子となり、後に浄土真宗の開祖となる。専修念仏の停止を迫られ、越後国府に配流された。赦免された後は関東での布教に努めた。『教行信証』、『浄土和讃』、『高僧和讃』、『正像末和讃』、『歎異抄』など多くの書物を残した。 竹崎季長(たけざき すえなが)日本(肥後国竹崎郷)1246~????統率:C 武力:C 政治:D 知力:D 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------御家人。文永の役(元寇)では少弐景資に従い、先駆けを務めたが恩賞に反映されず、財産を処分して鎌倉まで赴き、恩賞奉行の安達泰盛に直談判した。弘安の役では元の船に切り込んで軍功を挙げた。一連の出来事を『蒙古襲来絵詞』として描かせ、甲佐大明神へ奉納した。 武田時綱(たけだ ときつな)日本????~????(13世紀)統率:D 武力:D 政治:D 知力:D 文化:D 魅力:D--------------------------------------------------------------------------------甲斐武田家5代当主。武田信時の子。安芸守護。鎌倉幕府の御家人として仕えた。 武田信時(たけだ のぶとき)日本????~1289統率:D 武力:D 政治:D 知力:D 文化:D 魅力:D--------------------------------------------------------------------------------甲斐武田家4代当主。武田信政の子。安芸守護。 武田信政(たけだ のぶまさ)日本????~1265統率:C 武力:C 政治:D 知力:D 文化:D 魅力:D--------------------------------------------------------------------------------甲斐武田家3代当主。武田信光の子。父と共に承久の乱を戦った。伊豆守、安芸守、若狭守。 武田信光(たけだ のぶみつ)日本1162~1248統率:C 武力:C 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------甲斐武田家2代当主。武田信義の子。父と共に源頼朝に呼応して挙兵する。木曾義仲の追討軍にも参加し、一の谷の戦いでも戦功を挙げた。阿野全成の反乱鎮圧や和田合戦でも活躍し、承久の乱でも幕府側の東山道の大将を務め、安芸守護職に任じられた。 伊達宗村(だて むねむら)、伊達為重日本(陸奥国)1173~1250統率:D 武力:C 政治:C 知力:D 文化:D 魅力:D--------------------------------------------------------------------------------伊達家2代当主。伊達朝宗の次男。従五位下の官位を持つ。 伊達義広(だて よしひろ)、粟野次郎、入道覚佛日本(陸奥国)1185~1256統率:C 武力:C 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------伊達家3代当主。伊達宗村の次男。蔵人大夫、従五位下。伊達郡内に栗野大館を建て、居城を移した。承久の乱が起こると北条泰時に従い宇治勢力と戦った。 仲恭天皇(ちゅうきょうてんのう)、懐成(かねなり)日本1218~1234統率:D 武力:D 政治:D 知力:D 文化:D 魅力:D--------------------------------------------------------------------------------第85代天皇。順徳天皇の第一皇子。祖父の後鳥羽上皇が、承久の乱で敗れたため、仲恭天皇も廃位させられた。 土御門天皇(つちみかどてんのう)、為仁(ためひと)、土佐院、阿波院日本1196~1231統率:C 武力:D 政治:D 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------第83代天皇。後鳥羽天皇の第一皇子。僅か4歳で天皇に即位するが、後鳥羽上皇の院政が敷かれる。更に、退位を迫られてしまう。承久の乱後は、自ら望んで、土佐国、阿波国に渡る。温和な性格だった。 道元(どうげん)、道元禅師、仏性伝東国師、承陽大師日本(京)1200~1253統率:E 武力:E 政治:C 知力:C 文化:B 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------曹洞宗の開祖。比叡山で天台宗を学び、宋へ渡り、後に京都深草に興聖寺を開く。『正法眼蔵』などを著する。 鳥居禅尼(とりいぜんに)日本????~????(13世紀)統率:C 武力:C 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------源為義の娘。熊野別当の行範、長範、湛増らの妻となる。『立田原の女房』とも呼ばれ、治承・寿永の乱の功績で紀伊国佐野庄、但馬国多々良岐庄などの地頭となった。一族は熊野三山の内外に大きな影響力を持った。
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シノビガミシナリオ「大暗黒天の復活を阻止せよ」 想定 PCは4名を想定 対決型シナリオ 1.プロローグ PC達は、それぞれ自分の所属する流派の命令により 鎌倉幕府将軍の血を受け継ぐ一族「北条家」の元に集められる。 PC達が集まると、依頼主である現当当主北条時彦が内容を説明してくれる。 時彦の説明 我が北条家は、1221年に後鳥羽上皇が起こした「承久の乱」を鎮圧した。 首謀者の後鳥羽上皇はこの責任をとって島流しとなり、北条家はその後同じような戦が 起きないよう、京都の動きを監視する六波羅探題という機関を設立したという。 しかし、当時の後鳥羽上皇の一派は捲土重来を図るため、暗黒の秘術を使い 外なる神「大暗黒天」なるものを召喚しようと目論んだのだ。 幸い、六波羅探題の活躍によりその目論見は未然に防がれたのだが、800年の時を越え、今再び 後鳥羽上皇の怨念を継ぎ、大暗黒天を召喚しようとする機関が現れたのだ。。 各流派の優秀な忍びである諸君には京都に赴き、その野望を阻止してもらいたい。 此度、大暗黒天を召喚せんと目論む機関は「荒神」という。 その頭領である「東雲 錠」は、シンバルを使って超音波を発生させ 敵を気絶させる強力な忍術の使い手だ。心してかかってくれ。 当時、後鳥羽上皇の野望を阻止した六波羅探題では「神喰らい(ゴッドイーター)」という 秘宝の力を借りてその野望を阻止したという。 諸君はまず京都で「神喰らい」の在り処を発見し、その後、神喰らいの力を借りて「荒神」の野望を 阻止してもらいたい。 ハンドアウト PC全員の使命「大暗黒天の野望を阻止せよ!」 PC1 秘密:あなたの祖先は六波羅探題の長であり、あなたは「プライズ:神喰らい」を所持している。 あなたの本当の使命は、他の者に気づかれないように神喰らいを使用し 自らの手で荒神の野望を阻止することだ。 PC2 秘密:あなたは北条時彦より密命を受けている。 時彦によれば、各流派より集められた者の中に荒神のスパイが紛れ込んでいるとの情報が入ったという。 あなたの本当の使命は、仲間内に紛れ込んだ荒神のスパイを特定し、その目論見を阻止することである。 PC3 秘密:あなたは荒神のスパイである。 あなたの本当の使命は、あなたの仲間達の行動を遅らせ、大暗黒天召喚までの 時間を稼ぐことである。 PC4 秘密:あなたの流派は荒神より護衛任務を受けている。 あなたの本当の使命は、荒神のスパイであるPC3の正体を秘匿し、その任務遂行を 手助けすることである。
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+貴族文化の革新 貴族文化の革新 平重衡の焼討ちによって灰と化した東大寺の再建は、あらゆる階層、すべての地域にわたる人々の幅広い協力を得てはじめて可能なことだったのであり、それは鎌倉時代の新しい文化を創造するための大舞台となり得た。 東大寺再建に尽力したのは俊乗房重源という老僧であった。かれは勧進職に任ぜられ、勧進聖として全国にその活動をくりひろげ、東大寺再建の資を集めた。また、かれは宋に渡ること三度、さまざまな実際的な技術を学んできた僧でもあった。ゆえに再建にかかる経済的・技術的困難を克服することが可能であったのだ。 東大寺の伽藍は、天竺様とよばれる新しい様式で建てられた。それは重源が宋で学んできた手法であり、部分品の規格を統一して量産し、工法も単純にして組み立ててゆくという合理的な方法を基礎にするものである。 南大門の仁王像の制作者は、運慶・備中法橋・快慶・越後法橋の四人の大仏師である。ただ、それは一段の仏師たちを率いて製作に当たった大仏師の名であり、その背後にはすぐれた技量をもつ多数の小仏師がいて各部を分担し、その下にはさらに多くの工人がいた。仁王像はわずか二ヵ月余で作りあげられたが、それは大仏師の統率力や木寄法という方法の発達によってはじめて可能なことだった。 東大寺再建では、当時貴族たちの間ではなお大きな支持を得ていた京都仏師ではなく、奈良仏師のみが独占的に造仏をおこなった。重源が奈良仏師のもつ新しさを見出す眼を持っていたからでもあり、また再建の有力な支援者頼朝も奈良仏師と関係が深かったからであると考えられる。 運慶が、その作風や活動の場からして武士的であるとするならば、快慶は庶民的ともいうべきで、鎌倉時代の文化の特色を示す二面をこの二人は分かち合っていたと考えることができる。 東大寺再建の運動は西行をも動かしていた。西行はかつて弓馬の道にも通じた武士で、佐藤兵衛尉義清といった。ところがかれは浄土教の影響を受け、二十三歳の若さで出家遁世し、社会的な束縛から自由になり、旅に出たり、さまざまな人々と自由に交わったりして自分を深めていった。 南都焼打ちの最高責任者重衡は、焼打ちから三年余ののち、一ノ谷の合戦で生捕りにされ、頼朝の意向で関東に送られることになった。 その前に、かれは法然の教導を受けた。 法然は、修行の末、ただ南無阿弥陀仏と唱えれば救われるという称名念仏を選択する立場に到達した。それは、叡山でおこなわれていた貴族的な仏教を民衆に開放し、また知識として学ばれ、国家に奉仕するものでしかなかったそれまでの仏教を日本人自身の主体的な宗教に転換させたということで、日本の歴史上画期的なことであった。 また、平安時代の末に、宋の文物が停滞した貴族の文化にとって新しい活力を与えるものとして注目されるようになったとき、宋で発達した禅宗も新しく脚光を浴びるようになった。禅宗の広がりに影響力を及ぼしたのは、栄西である。 しかし、鎌倉武士たちは禅僧としてよりも、葉上流台密の効験あらたかな僧として栄西をうやまっていたのであり、禅宗が日本人の間に根をおろすには、まだかなりの年月がかかるのである。 (Shade) +悲劇の将軍たち 悲劇の将軍たち 頼朝が亡くなり、長男である頼家があとをついだ。年はわずかに十八歳である。 頼朝が亡くなってすぐ、京都朝廷のリーダーである通親が幕府派への総攻撃をするなど、幕府の前途は早くも多難を予想させた。 頼家の手腕に不安を感じた側近の老臣たちは、母の政子とはかって、頼家が直接訴訟を裁断することを停止し、元老や御家人代表たちが合議で裁判することにきめてしまった。 頼家がだまってこの処置をうけいれるはずもなく、かれはお気に入りの近習たち五人を指名し、かれらでなければ頼家にお目通りできないと定め、またかれら五人の従者たちが鎌倉の中でどのような乱暴を働いたとしても、手向ってはならない、という無茶な命令まで下した。五人の若い近習たちとは、いずれも比企氏の一族や、それと縁のつながる人々であった。頼家にとって、能員以下の比企氏一族は、この上ないうしろだてだったのである。 頼家は、五百町以上の恩賞地没収や、境界争いの裁判につき墨引きをするなど、諸了知支配権の保護と所領をめぐる争いの公正な裁決という、幕府をつくり上げる原動力となった東国武士たちの最大の要求を正面から踏みにじるような政治を行った。これでは、東国武士たちが何のために鎌倉殿を主君とあおいでいるのか、わからない。 もともと鎌倉に幕府をうちたてる構想自体、東国武士のものであり、頼朝をおし立てて幕府の樹立に成功したのも、かれらの武力のたまものだったはずだが、成立した幕府体制は頼朝と側近による独裁政治であった。 頼朝の死により、こうした初期幕府の専制体制は、東国武士の横の団結によって修正されねばならない、という武士たちの機運が高まってきた。 その最初の表現が、梶原景時の粛清事件であった。 景時は侍所として有能であり、独裁者頼朝の無二の忠臣であったが、その立場が頼朝の死後、微妙にゆらぎ始めたことは想像にかたくない。 『吾妻鏡』によれば、将軍御所内の侍の詰所での結城朝光の発言を景時が訊きこんで、謀反心のある証拠だと将軍に告げ口したため、朝光は殺されることになっている、と阿波局が朝光にささやいたので、おどろいた朝光は同志をつのって景時を糾弾することにした。そして、景時は鎌倉追放を申し渡され、鎌倉の屋敷はとりこわされた。翌一二〇〇年の正月、大がかりな反乱をたくらんだ景時は、ひそかに一族従者をひきつれ、京都へと出発したが、その途中駿河国清見関近くで、付近の武士たちに発見され、一族もろともあえない最後をとげるに至ったという。 しかし、この『吾妻鏡』の記述が事件の真相のすべてをつたえているとは、とうてい考えられない。筆者は、景時粛清事件の裏で糸を引いていたのが北条時政ではなかったか、と述べる。景時糾弾のいとぐちをつくった阿波局は時政の娘、政子の妹にあたるし、景時事件の当時、駿河国の守護として国内の治安警察権をにぎり、御家人を統率していたのも、時政だったからである。 景時粛清事件は、独裁将軍を夢みる頼家にとって、もっとも有能な部下を見殺しにしたものであり、致命的失敗であったといえる。 この事件は御家人グループの成長によるものでもあるが、時政自身がそのグループの代表的存在であったかといえば、そう簡単なものではなかった。 北条氏は最初から他の東国武士を圧する、とびぬけて強力な豪族だったという見方には、いくつかの点で疑問がある。第一に北条氏が桓武平氏の子孫という点であるが、北条氏系図は、いずれも時政以前の世系が一致せず、疑問が多い。第二に、時政以前にわかれた同族がひとつもない。第三に、四十を越えた時政が、なんの官位も持っていない。 これらの点から考えて、北条氏は伊豆においても中流クラスの存在とみられるのである。だが、時政の正体はどうもはっきりしない。 ともかくかれは相当なくせものであり、側近兼東国御家人という二重の立場を利用しながら、相ことなる二つのグループを操縦して頼家を倒し、実朝を立てようとする、その第一着手として、最大の強敵で一般御家人のうらみの的となっていた景時にねらいをつけたのであった。 景時の滅亡後、三年の歳月はまずまず平穏であったが、一二〇三年、七月なかばすぎから頼家は急病にかかり、八月末には危篤状態に陥った。このとき、頼家のあとは六歳の長男一幡がつぎ、日本国総守護と関東二十八ヵ国の総地頭となり、十二歳の弟千幡(実朝)には関西三十八ヵ国の総地頭を譲ることになった、と発表された。 これを聞いておさまらないのが、頼家側の黒幕比企能員である。かれは病床の頼家と面会し、北条氏征伐のはかりごとを相談したが、それを障子のかげで立ち聞きしていた政子の急報を受けた時政は、先手を打って比企一族を滅ぼした。頼家の近臣として威勢をふるっていた連中もみな処罰され、九月七日には頼家は鎌倉殿の地位を追われ、実朝がこれに代わった。かくて時政は幕府の中枢にすわり、新たにかれ一人の署名による「下知状」という文章を発行して、御家人たちの所領安堵などの政務をおこなうようになった――と『吾妻鏡』にはある。 しかし、この記述もまた多くの真実が伏せられたままである、と筆者は述べる。 比企氏の反乱そのものが、巧妙に仕組まれたでっちあげ事件だったのではないか、という可能性もある。頼家側近や比企氏のなかに、北条氏の手先やスパイが潜入していたのではなかろうか。頼家のお気に入り五人のなかの、中野五郎能成という信濃の武士がいたが、かれは時政から所領安堵を受けており、疑惑の対象になりうる。 ところが、こうして幕府権力の表面におどり出た時政も、調子に乗り、実朝を殺して若い後妻の牧ノ方の寵愛深い娘の婿である平賀朝雅を鎌倉殿に立てようとして、政子・義時に幕府から追放された。 父に代わった義時は、きわめて柔軟な態度を示し、政子と将軍実朝をつねに表面に立て、旧側近官僚グループとの連絡をさらに密接にしながら、御家人たちの信頼獲得につとめた。 他方で、かれは北条氏の勢力を確立し、かれに対抗する有力武士団の力をけずるためには、あらゆる努力を惜しまず、どのような機会をものがさなかった。 義時は幕府創立以来侍所の重職にすわっていた和田義盛にねらいをつけ、和田合戦において、義盛を一族親類共にほろぼした。 和田合戦の結果、義時は義盛に代わって侍所別当となり、政所別当と兼任して、幕府のもっとも重要な政務機関長のポストを独占するようになった。北条氏の幕府指導者としての地位は、ここにほぼ定まったといってよい。 鎌倉殿独裁政治に代わる、北条氏が幕府権力を握る執権政治はこうして始まったが、執権政治成立の時期については、かならずしも明白ではない。「執権」の職名自身が当初から存在したわけではないので、北条氏の権力が伸長したそれぞれの時期をもって、執権政治成立の時点と主張することが可能となる。 本書では、時政の実権掌握をもって執権政治の成立とみなし、和田合戦後をもってその確立と考えることにする。 一一二九年正月、実朝が公暁に暗殺される。 この暗殺事件の背後関係であるが、義時がひそかに公暁をそそのかして実朝を暗殺させ、さらに一味の三浦義村に命じて公暁を葬ったというのがこれまでの通説的見解であった。 しかし、公暁は義時のつもりで仲章を殺しているため、義時が黒幕だとすると少々おかしな話になる。そこで、三浦義村が公暁の背後にあった、という解釈にも筆者は魅力を感じる、と述べている。 名もない東国の一地方武士の出にすぎない北条氏の覇権獲得は、東国武士たちによる権力獲得の第一歩であり、武士の政権としての幕府の純化と発展の過程を示しているといえよう。 (Shade) +承久の乱 承久の乱 実朝が頼家の子に殺害された報が京に届く。後鳥羽上皇はこれをいかにして受け止めただろうか。上皇の性格およびその統治体制を考察することによって推測してみよう。 後鳥羽上皇は多芸多才、百科全書的な万能人間であった。『新古今集』を率先して編纂し、自身も時代を先導する歌人として君臨した。蹴鞠・管弦・囲碁・双六などの遊戯、相撲・水泳・競馬・流鏑馬・犬追物・笠懸などの武芸に精通し、京都の内外で狩猟もしばしば行った。刀剣に関心深く、時には自ら焼いて近臣や武士たちにこれを与えた。太刀は菊の紋で飾り、「菊作りの太刀」と称せられた。「菊花の御紋章」の起源は、これだと言われている。天皇家において、これほどまでに武芸への関心が強い者の存在は異例であり、周囲もこれに倣って武芸に励んだ。将軍実朝が武芸に無関心な現実逃避型の人間であったことと対比すると、まことに異様奇怪あべこべである。上皇は道楽好きな専制君主としての側面も持ち合わせていた。熊野三山に信仰のため参拝すること三十一回、同中での遊興費は多額に達し、その負担は民へ向かう。善悪功罪はさておいて、強烈な人間性を有していたことは間違いない。気分屋な側面はしばしば側近を辟易させた。 このような人間も唯我独尊ではいられない。育ての親には頭があがらなかった。当時齢五十を過ぎた藤原兼子がその人である。彼女は上皇の愛人、美少年の斡旋を行うなど、下の部分までの世話役として振る舞っていた。彼女は 従二位 にのぼり、卿二位と呼ばれ影の実力者として君臨する。といっても周囲にとっては影どころか後光が差すほど明らかに眩しかったようで、立身出世を望む数多の貴族が彼女の元へ金品と共に馳せ参じた。賄賂により財宝は山のように積まれた。上皇の勢力に出家をさせられた 慈円 は著書『 愚管抄 』にて、その 売官 ぶりを痛烈に非難している。しかしながら、それは当時において経済合理性がある行動であることの証左でもあった。 上皇の財政を最もよく支えたのは膨大な荘園群であった。「荘園整理」を口実に、荘園を院の直轄とし、摂関家への寄進という流れを断ち切った。最高の権力者の元には、その威を借ろうと多くの者が集まってくる。院はさらに荘園の寄進を受け、その土地はますます広大となった。これらの土地は、寺院や上皇が寵愛する女性、皇女に分け与えられ、院周辺の者に相伝されることになる。後鳥羽上皇の浪費を支えた経済的基盤は、ここに存在したのである。 しかしながら、寄進する側も馬鹿ではない。荘園現地の実権は上皇でなくあくまでも寄進した当事者が握り、他に好条件で権威と安全が得られる組織があれば、そちらに移れる体制を残しておいたのである。こと東国においては、農場主は幕府の御家人となり、鎌倉殿から 地頭 に任命されることによって権力と安全を確保していた。 上皇にとってこれは面白くないことである。地頭になってしまえば、その荘園は完全に幕府の管轄に入ってしまい、年貢の滞納などの不法行為にも 鎌倉殿 のお伺いを立てて処分してもらう他ないからである。 上皇はたびたび地頭の免職を訴えたが、実朝はこれを拒否。上皇の妥協に傾きがちであった彼に毅然とした態度で臨ませたのは、当時御家人の利益を代表していた執権北条義時の助言によるものであった。 上皇の専制君主的な性格はここでますます発露するに到る。院政主導による京都鎌倉の融和策がうまくいかないとわかると、彼は次第に反幕・討幕的思想に染まっていく。歌の中にも憤懣・慷慨を露にするものが増えた。上皇はうっぷん晴らしのためか、討幕の予備のためか、ますます武芸に打ち込んだ。1207年(建永二)には最勝四天王院という寺院を設立した。ここで彼は関東の調伏・呪詛を行ったと後世に伝えられている。 実朝暗殺の報が届いたのは、まさにこのときであった。かつて後鳥羽上皇は実朝の昇進の便宜を図ったことがある。その実朝の死自体に関して上皇が何を思ったのかを推測するのは難しいが、これを機に鎌倉幕府が自壊してくれれば、とほくそ笑みはしたのではないだろうか。いずれにせよ、後の承久の乱が示している通り、上皇はどこかで討幕の決意を固めている。実朝の死という事実がこの決意を下すにあたって大きな影響をもたらしたのは想像に難くない。なお、この死によって源氏の将軍の血筋は完全に絶えることとなる。 暗殺前年の春に、尼将軍(北条政子)と卿二位の間で既に上皇の皇子を鎌倉殿に立てる合意がなされていた。実朝暗殺を予期しており、あえてこれを看過したというよりは、一向に実朝が子をなさないことを案じて万が一に備えておいたと考える方が現実的であろう。頼家も実朝も政子の子である。頼家は暴虐により北条の手によって暗殺されたが、実朝は温和な性格であり政子に従った。いかに尼将軍といえども従順な子を切り捨てる行為は母性が許さないであろう。 上皇は鎌倉の申し出を「いずれ考えるから」と体よく拒絶する。院政組織の再編成と共に卿二位の神通力が絶対的ではなくなりかけていたのと、上皇の幕府自壊の狙いの二つがこの回答の主要な理由と考えられる。院はやがて鎌倉に使者を送り、摂津国長江・倉橋両荘の地頭の免職の要求を突きつけた。事実上の交換条件である。かねてより院はこの地頭に手を焼いており、今こそ好機と考えたのだろう。しかし鎌倉には鎌倉の理があった。「頼朝時代以来、御家人武士に与え、安堵した所領は、よほどの大罪を犯さぬかぎり免職にはしない」というのが執権政治以来の大原則であった。交渉は決裂し、地頭は存続、皇族将軍の話は流れた。 九条道家 の子である三寅(頼経)の母系が頼朝の血統であることを理由に、彼を鎌倉殿に迎える許可を上皇におろさせた。このとき三寅は弱冠二歳、後に言う藤原氏将軍第一代となった。これで落着したかにみえたが、双方の内心には大きな猜疑と憎悪が残っていた。それは不可視でありながら、時代を闘争へと誘う推進力としては十分すぎた。 1219年(承久元)、頼政の孫で皇居の大内裏を守護していた源頼茂とその一族が後鳥羽上皇の軍勢によって攻め滅ぼされる。頼茂が将軍になろうという陰謀が発覚したというのが院の言い分であったが、これほどまでに緊張した関係において院が鎌倉を気遣うのはまことに不自然なことである。異様な出来事はこれにとどまらなかった。事件に連座して上皇の近臣藤原忠綱が失脚し、最勝四天王院が突如取り壊される。真相は不明だが、討幕計画とかかわりがあったのではないかと推察される。 討幕計画は水面下で進められていた。慈円は『愚管抄』にて、この討幕計画は実現可能性がまるでなく、失敗は明らかであるとの予言を行った。彼は書物で批判を進めながら、神仏に祈願し国家の救済に誠を尽くした。 知者の理性は権力者の衝動に敵わない。1221年(承久三)、計画はいよいよ進められ、各地の神社で大規模な祈祷が行われた。順徳天皇もこれに賛同し、自ら皇子に皇位を譲って上皇となり、自由な立場で討幕運動に専心するようになった。流石にここまでの規模になると鎌倉にも勘付かれ始める。躊躇している暇は最早ない。院は諸国の兵を集め、幕府側の勢力を逮捕・拘禁あるいは討伐した。 北条義時 討伐のため、上皇の元へ馳せ参じるようにという院宣が全国に発布された。 院側は宣旨は絶対であるという認識のもとに、義時に従う者は千人に足らないという楽観論が支配しており、「万は下らない」などという慎重論は聞かれもしなかった。院の権威への信仰は過信であり妄信であったという事実にこの後彼らは直面することになる。 院の楽観的な態度とは対照的に、幕府は実に慎重であった。敵の権威と影響力を良く理解し、慎重かつ迅速な判断をなすように努めたのである。急報を聞いて将軍御所に参じた多くの武士たちを前に、北条政子はその口を開いた。 「心を一つにして私の最期の言葉を聞きなさい。亡き右大将(頼朝)殿は幕府を草創され、京都大番役を軽くし所領を安堵されました。そのご恩は山より高く、海より深きものです。御家人として名を惜しむ武士ならば今こそ一致団結するのが道理。……御恩を忘れて院に下ろうと言うのなら、まず私を殺し、鎌倉全土を焼き払った後に京都に向かいなさい」 尼将軍・北条政子、一世一代の大演説であった。 御家人たちは思い出していた。幕府無き頃に、どれだけ武士が惨めで退廃的な生活を繰り返していたか。幕府ありし今、どれほど安堵に満ちた生活が保障されていたか。恩に報いて命を差し出すのは今この時、この時しかない。朝廷の権威に逆らうことに疑問がなくはなかった。その迷いを涙と共に拭い去り、集まった御家人はみな幕府を守護することを誓った。 夕刻に早速首脳部会議が開かれた。いったんは抗戦の策が多数派を占めたが、大江広元が京都出撃を提案し、次第にこちらの意見が優勢となった。大江広元は頼朝以来政治顧問として幕府の枢機に参与した、老政治家であった。この作戦が功を奏し、東国の武士たちは道中で次々と参戦の意を示し、幕府軍は万を遙かに超す大軍となった。武士たちにも迷いがあった。ある地方武士は土地に根ざした神にその判断を仰ぎ、その加護を背に立ち上がった。こうして立ち上がった武士の士気は高く、大将北条朝時の到着を待たずに次々と前進した。義時はこの功を賞し、「一人残らず殲滅せよ。山に入れば『山狩り』をしてでも召し捕れ。焦って京を目指すな」と指令した。 上皇側は慢心していた。ひとたび院宣を下せば、諸国の武士がたちまちにこれに従い、義時の首を持って上洛するであろうと確信していた。 この予想は半分は的中した。確かに武士は上洛した。しかしそれは義時側についた幕府軍であった。院側はこれに驚愕し、ただちに主力を美濃・尾張の堺、尾張側(木曽川)の沿岸に展開して防衛線を張ろうと試みた。幕府軍の勢いは止まることはなく、彼らが防衛陣地を築きあげぬうちに攻撃を開始する。寄せ集めかつ戦力分散という愚策が災いし、西軍は惨めな敗北を喫した。 この敗報を聞き、京都はさらに動揺し、洛中の上下貴賎は東西南北に逃げ惑う有様となった。上皇は自ら武装して比叡山に登るが、以前の大社寺抑制策がたたって、その庇護を拒絶される。上皇はあえなく下山し、全兵力を宇治・勢多に投入し、最後の一線に備えた。時は六月、豪雨により宇治川はその水位がかなり増していた。しかし鎌倉軍は引くことなく、多数の犠牲者を出しながら渡河し、ついに勝利を掴んだ。 東軍の優勢が明らかとなると、略奪を始めとした暴虐が始まった。戦争の常である。人は殺され、家は焼かれ、財は奪われた。武士に関しては義時の指令もあり、特に悲惨を極めた。 上皇はこの時に至って、義時追討の宣旨を取り消し、その責任が「謀臣」たちにあるとし、彼らの逮捕を命ずる宣旨を発布した。専制君主を象徴する政治的無責任である。後鳥羽上皇は猛者ではあったが、武士とは決定的な違いがあった。矜持を持っていなかったことである。上皇に身捨てられた西軍の武士は散り散りとなり、ある者は自殺し、あるものは捕縛され、ある者は逃亡した。義時追討宣旨が発布されてわずか一か月のことだった。承久の乱はこうして終焉を迎えた。慈円の予言を超えて、この乱が生み出した弊害は苛烈であった。僧の祈りは悉く塵芥に帰し、神にも仏にもついに届かなかったのである。 乱後の幕府側の処置は実に厳しいものであった。後鳥羽上皇・順徳上皇はそれぞれ隠岐・佐渡に島流され、追討反対派であった土御門上皇も自ら進んで土佐に流された。九条天皇は廃位され、後鳥羽上皇の兄である行助法親王の子が新たに天皇の位を継いだ。後鳥羽上皇所轄の荘園はすべて没収され、後高倉院に寄進されるも、その真の支配権は幕府の手の内にあった。京方として討幕計画に参加した貴族は例外なく処罰された。流罪、免職、謹慎、そして死罪といずれも実質的な処罰であり、形式的なものは一つもなかった。武士の大半は斬首された。幕府は京都に北条泰時と北条時房を残し、朝廷の監視や乱後処理を行わせた。二人の館は平氏の根拠地である六波羅にあったので、この地位は後に 六波羅探題 と呼ばれるようになった。 北条氏は京方の所領三千余か所に地頭を新たに任命し、西方を支配する。勝利の美酒に酔った武士たちは、生来の豪気も影響して、地頭に任命された各地域で慣例に反した不定期の租税や、既存勢力の追放を行い、領土を拡張していった。住民がこれに黙っているはずがなく、各地で訴訟が相次いだ。幕府は地頭を諌め、 新補率法 という先例のない場合の地頭の標準収益を定め、各国ごとに荘園・ 国衙領 の面積・所有者などの情報を記録した大田文を作って新たな土地支配の秩序をうちたてようとした。 「天皇御謀叛」という言葉が鎌倉時代末から南北朝時代にかけてしばしば用いられた。律令国家において、もともと「謀叛」は最高権力者=天皇への反逆を表すので、原義から考えるとこれは矛盾もはなはだしい。このような言葉が流行った事実は、天皇はもはや唯一絶対の支配者とはみなされなくなったということの傍証であり、その契機は承久の乱にこそある。神聖な権威ではなく、政治能力を以て支配の正当性を認識する傾向が国民に現れ始めていた。中国の徳治思想の表れとも考えられる。天皇は天皇であるから支配者たりうるのでなく、正しい政治を行うことによってはじめて支配者たりうる。そのような認識が承久の乱を通して人心に芽生えたのである。政治思想史上、承久の乱の意義は大きい。 幕府はこうして朝廷を打倒し、その権威を明らかにした。長い間武士を脅かしてきた朝廷の権威を打倒したのである。 天皇が完全に幻想に帰する 1946年 (昭和21)の 宣言 と並んで、歴史に残る大事件といえよう。 (Jiyu) +親鸞と道元 親鸞と道元 法然の思想を最もよく受け継いでいた親鸞は、日野有範の子として生まれている。彼の家族には文章生がおり、知識のある人間が多かったようである。9歳の時、彼は慈円の元で出家し、それから20年間の間叡山での修行に励んでいる。 法然の門下に入って以後も、修行にはげみ、その一方で彼は妻帯にも踏み切っている。だが法然の元ではその頭角を現している。その彼は、念仏を一度唱えれば救われる、とした一念義を主張し、それゆえ法然門下ではラディカル的な立ち位置であると言えた。だが親鸞が法然と過ごしたのは6年のみであり、ここで法然の流罪が決まり、親鸞も流されてしまうこととなった。 一方の道元は、親鸞の叡山下山の1年前――源平合戦の完全に終わった後に源通親の子として生まれている。下級貴族の生まれであり源平合戦下での生まれである親鸞とは、その点で対照的とも言える。 幼くして両親を失うこととなった道元は、13歳のときに良観のもとで出家し叡山に籠った。だが翌年、道元は叡山を下り、流浪の挙句に建仁寺へと入門している。栄西の弟子・明全の元で禅を学んだ道元は、24歳の時に入宋している。 禅宗とは、インド僧・達磨を始祖とし、唐代には中国の仏教として確立していた。だが北宋代には、寺院は貴族とのつながりを深めて堕落の一途をたどることとなっていた。だがそれでも道元にとっては禅の本質を学ぶ良い機会となった。天童山にて学んだ道元は、26歳の時に悟りを開いて印可を貰うこととなり、それから2年間猶修行を続けた。 道元が叡山を降りた頃、親鸞は流罪地・越後を離れて布教活動を始める。関東へと布教を行った親鸞であるが、一度浄土三部経の千回読経を試みてしまった。これは名号を唱えれば救われるという念仏に反するもので、これには大きな反省をすることとなる。だがそのような経験をもう一度体験しており、その二回の宗教体験を通して親鸞はその思索を深めている。親鸞は自己を見つめることによって仏法を解釈してゆき、道元は正しい仏法を求めて遍歴する。その点で二人は、決定的に異なっている。 この親鸞が書いたノートが『教行信証』である。これは『選択集』の注釈とも言える、様々な古典の抜き書きであった。また、彼は次第に信者を増やしてゆき、その信者の中で小さな道場を設ける者もふえていた。だがこの道場の僧の中には、他の寺と信徒の奪い合いを行う者もおり、その結果として念仏禁止令が出ることとなってしまっていた。 一方で、道元は帰国すると"正法"を広めるべく活動を始める。彼は坐禅こそが仏法の正しい道であると主張し、しかしそれゆえに叡山からの迫害を受けた。これに対して道元は波多野義重の庇護のもと永平寺を建立。禅林を得た彼は、思想を円熟させる一方で修行僧の規律を整えた。道元は再び厳しい修行生活へと入り、その生活の中53歳で示寂することになる。 一方、親鸞の教団の中では内部対立が顕著となっていた。道場主の中での思想対立が噴き出したのである。その中、息子の善鸞が教団を破壊し、自らのものにしようとしていることを知り、親鸞は善鸞を破門している。 そのような苦難の中、『自然法爾法語』で究極の信仰を著した親鸞は、90年の生涯を閉じている。 鎌倉時代の文化は、院政期文化の完成といえる1198年ごろまでの第一期、動乱の中での自己形成・確立を行った人々による1220年ごろまでの第二期、貴族文化の退潮による思考錯誤の時期である1262年の第三期と、三分割することができるのである。 (Spheniscidae) +東への旅・西への旅 東への旅・西への旅 東西二大勢力の出現によって、東海道の重要性が高まってくることになる。 この出発点は京の粟田口である。後鳥羽上皇の再建である法勝寺八角九重塔がまず目立つ。また鴨川の東には六波羅の探題がある。平安京としての京が衰退する一方で手工業者や商業者が発展していた。 近畿の農村では、神社の祭礼などを共同で行う宮座が、すでに組織されていた。山野や水利を共同利用する村が、次第に成立してきていたと考えられる。 十日に一回ずつ開かれる十日市は、鎌倉時代の貨幣経済発達に応じて全国に広がっていた。奴隷も含め、様々な物が売り買いされていたのである。 だが旅をするということは危険を伴った。馬を利用するのは武士くらいで、殆どが徒歩。草鞋等を利用し、故に草鞋を売る店が街道には存在した。道路状況もよくなく、また川は大きな障害として立ちはだかった。盗賊もしばしば出没していたのである。 このころ、東海道では宿場町が発展していた。これらの宿には遊女が少なからずおり、物語として語られることもある。遊女の他、傀儡女などの芸能民も東海道を中心として活動していたと言われている。 乞食も多かった。この時代は飢饉も多く、農民の中には乞食に零落するものも少なくなかったのである。 鎌倉とは、三方の山に囲まれた都市であり、入るには七つの切り通しを利用するしかない。またその入り口には木戸が設けられていた。鎌倉が過密都市であったことはまちがいないが、その人口は明らかではない。 都市計画も行われたが、狭い鎌倉では京のように碁盤の目とはいかなかった。だが辻子と呼ばれる小さい道を通すと言うことは行われている。 承久の乱ののち、幕府の権力は全国化し強大化した。また経済の中心の役割を担うことともなり、それゆえ鎌倉は飛躍的な拡大を遂げることになる。 また和賀江島を港として築造し、そのために貿易港としての機能も持っていた。 鎌倉では大路の中央に水が流れ、それを利用していたようだが、その上に張り出す違法建築もしばしばあったようである。 鎌倉の大仏は、奈良の大仏が国家事業で作られたことに対して、阿弥陀信者の募金によって作られており、好対照をなしていると言えよう。 1266年、親王将軍は京へと送還された。このことは、これまでの鎌倉幕府の歴史――地方社会のエネルギー噴出ということを、象徴する出来事である。一方、この時代東アジアを激動が巻き込みつつあり、鎌倉幕府の真価がためされようとしていた。 (Spheniscidae)
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kurakuraかまくら【登録タグ IA K VOCALOID ゆうゆ ニコニコ外公開曲 曲】 作詞:ゆうゆ 作曲:ゆうゆ 編曲:ゆうゆ 唄:IA 曲紹介 学研プラスより発行されている『ボカロで覚える高校日本史』収録曲。内容は【鎌倉時代】。 キャラクターのイラストは altm氏 が、動画は えむめろ氏 が手掛ける。 2019年6月20日、YouTubeに投稿された。 投稿されているのはショート版。 歌詞 …二代義時 承久の乱 後鳥羽上皇破る風雲児 六波羅探題 京都に置き おイタはNo,No 見ているよ 三代泰時 ついに体制固め 連所と評定衆で政治をキメろ 御成敗式目制定 武家にも法律 後のこと任せたぞ 五代目時頼 引付衆ども 時は流れ 八代時宗 元寇 元寇 元寇 蒙古襲来を退けた 文永 弘安の役 恩賞足らぬ戦いに 御家人の貧窮 仲違い 嗚呼… 鎌倉 cool love 九代貞時 霜月騒動 九州に鎮西探題 元寇に備えて 鎌倉 cool love 永仁の徳政令じゃ 借上キレてる 支えておくれよ御内人 得宗専制政治 鎌倉はーー 庶民に広まる… コメント 名前 コメント
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二条定高 建久元(1190)~暦仁元(1238)年1月22日 父は参議九条光長。母は兵部大輔藤原朝親の娘。兄の参議海住山長房の子となる。初名為定、また経光。六位蔵人に任じた後に近江・伊賀・越後・肥前の国司を歴任。承元三(1209)年、義父長房が参議を辞した替わりに、五位蔵人を経ずに右少弁となる。このとき実兄宣房も権右中弁であった。兄弟はともに弁官を昇進するが、宣房は参議にならぬまま退官。定高は建保六(1218)年に参議となって公卿に列した。常に定高と相並んで弁官を務めていたのが葉室宗行で、定高が宗行の譲りをうけて従四位下に叙されるなど、両者はたいへん親しかったらしい。定高の姉妹が宗行の義弟宗方の室になっていることは、このことと関係があるのだろう。参議になったのは後鳥羽上皇の近臣である宗行の方が四年早いが、就任時の年齢で比べると宗行は四十歳で定高は二十九歳である。いかに定高の昇進が順調であったか分かるだろう。承久二(1220)年に権中納言。承久の乱後は九条道家に重用され、政治顧問の最上位を占めた。幕府との交渉は専ら彼が行なうところとなり、実質的な関東申次であった。義父長房は承久の乱の折、後鳥羽上皇をいさめて出家している(1)。この点を幕府に評価されたのかもしれない。二条東洞院に屋敷があったので二条と号した。後鳥羽上皇の皇女で齋宮を務めた煕子内親王をここに引きとっている(2)。また深草にも邸宅があった(3)。 『小槻季継記』 『類聚大補任』七 佐渡天皇 齋宮 『玉蘂』嘉禎三年正月十七日 (本郷和人)